その9


華北交通の昌黎会(平成6年5月17日)

 京都大学農学部OBが中心の会に、「甘しょ談話会」がある。トップにサツマイモの祖先種論争で有名な西山市三先生を戴き、年に1回集まっているという。

 中国は現在、世界のサツマイモ総生産量の8割以上を生産している「サツマイモの超大国」だが、具体的な情報は日本にほとんど入ってこない。そこで「川越いも友の会」では4年前の1990年夏、訪中団をつくり、中国最大の産地、華北地方を回った。参加者6名。団長、小生。事務局長、山田英次氏。

 その噂が京都に流れ、翌年の1991年夏、「第13回甘しょ談話会」に招かれた。世話人は近大の杉野守教授と甘しょ農林2号の育成で知られる長谷川浩京大名誉教授で、会場は京大会館の一室。参加者は京都側は西山先生ほか40名、川越側は小野真知子、芝敏晃、山田英次、そしてわたしの4名。

 4時間、現代中国のサツマイモ事情についての活発な質疑が交わされ、盛会だった。わたしは会の終了直前に、訪中は大成功だったが、一つだけ期持外れのことがあったと、こうもらした。

 「むかし『沖縄100号』というサツマイモがありました。1937年の日中戦争ぼっ発以来、脚光を浴びたイモですが、あれは太平洋戦争中に中国に渡っています。沖縄100号は中国でも作りやすく、量もたくさん取れたので大評判になったそうです。戦争が終り、中華人民共和国が成立すると、政府は『勝利百号』と改称、大々的な普及運動を始めました。

 江蘇省・山東省両農業科学院主編『中国甘薯栽培学』(上海科学技術出版社、1982)によると、一時は華北のサツマイモ畑の3〜5割もが勝利百号でした。そして今でもその血を色濃く継いでいる『徐薯18」が、華北の主導品種になっています。

 わたしが中国へ行って1番知りたかったのは、そこでこれほど活躍した沖縄100号を日本のどういう機関が、どういう目的で持ち込み、普及を図ったのかということでした。そこで向うの甘薯研究者に会うたびにそのことを聞いてみたのですが、相当の年配の人でも分からないとのことで、がっかりしました」

 すると思いがけないことが起った。華北の山海関の近くに昌黎という町がある。ここに「華北交通」の農業関係の試験場があった。そこの場長だったという城山桃夫先生が立ち上ってこう言われた。

 「わたしは当事者の一人でしたから、そのいきさつなら知っています。昌黎は最初は園芸試験場でした。ところが太平洋戦争末期になって、会社が沖縄100号などの日本甘署の大増産運動を始めると、その苗作りの基地になり、全職員がそれに当たりました。そのことは十年ほど前に出た華北交通の社史にあります」

 長い間分からなかったことの糸□が、思いがけない所で掴め、夢のように嬉しかった。城山先生は会のあと、こうまで言って下さった。昌黎で一緒に働いた仲間は敗戦で帰国したが、その後「昌黎会」を作り、今でも時々集っている。よかったらその会に出てこないか。当時の生の話が聞けるはずだと。

 その案内は昨年、さっそくあった。日光でやるとあったが、あいにく都合がつかなかった。その代り、今年は大丈夫だった。こんどは奈良で、今日からの2泊3日。宿は猿沢池のそばの「猿沢荘」。日中は奈良見物で、夜は宿での昔話。

 集ったのは12人。どなたもすでに80歳前後に達していたが、気持は若い。わたしのような部外者を同じイモ仲間として心よく受け容れ、聞きたかった話を次から次へとして下さった。

 ただそれを理解するには予備知識が要る。「満鉄」の名は知っていても、「華北交通」となると、初めての人が多かろう。そこで城山先生に教えて頂いた『華北交通株式会社社史』(華交互助会、1984)により、同社の概況と農村対策をまず見ておくことにしよう。

 1937年に日中戦争が始まり、日本軍が広大な華北地方を占領すると、そこの交通機関、特に鉄道の統一的な管理運営が必要となった。そこで1939年に設立されたのが日本の国策会社、華北交通株式会社だった。本社は北京。そして北京、天津、張家□、済南、開封、石門、徐州、鄭州などの要地に鉄路局を置いた。従業員は日系と中国系からなり、発足当初で8万人、終戦時には18万人もいた。日本人は中国人よりずっと少なかったが、要職は日本人のものだった。

 同社にとっての最大の悩みは反日勢カによる鉄道の破壊工作だった。そこで鉄道の沿線に1万余もの「鉄道愛護村」をつくり、村民の協カを求めた。径しい者が村に入ってきたら、直ちに日本側に通報してもらおうというものだった。

 それにはふだん、向うが喜ぶことをやってやらなければならない。会社は各地に「愛路農場」という農業試験場を作ったり、農作物の見本園を開いたりした。そしてそこを足場に、優良な種子や苗を無料で配ったり、愛護村の青年を集めて農業関係の講習会などを盛んに行なった。華北交通が鉄道会社であったにもかかわらず、多くの農業研究機関と研究員を抱えていた理由はここにあった。

 こうして会社と沿線農民との関係がよくなりだした時、華北の食糧事情が極度に悪化してきた。華北はもともと食糧を自給できない所で、年120万トンもの毅物を外部から入れていた。それが太平洋戦争末期にはほとんど入らなくなり、都市部では暴動の起こる恐れさえ出てきた。

 それを見て華北交通が発案し、実行を請け負ったのが沖縄100号を中心とする日本甘薯の緊急大増産だった。当時華北で日本甘薯の試作研究を行なっていた日本の機関はいくつかあった。

 ただそれを最初に組織的に始めたのは華北交通だったし、中国甘薯よりはるかに収量が多いことが分かった日本甘薯を、短期間に広大な華北全土に普及させられる組織と実力を持っていたのも同社だけだった。

 そこで敗戦の年になった1945年の春から日本甘薯100万トンの増産運動が華北交通の総力をあげて展開され、昌黎の試験場はそのための膨大な苗作りの本拠になった。

 これで沖縄100号の華北での普及事情の背景が分かって頂けたと思うが、案際にはさまざまな苦労があった。次回からはその仕事の当事者として活躍された昌黎会の方々からの聞き書きを紹介させて頂くことにしたい。

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