その10


昌黎会その2(平成7年1月10日)

 昨年の奈良での昌黎会の参加者で、最長老は明治44年生まれの江上利雄氏だった。今は横浜に住んでおられる。奈良でもお話を伺ったが、聞きもらしたこともあったので今日、改めてご自宅にお邪魔させてもらった。以下は奈良と横浜とで伺った話である。

 「太平洋戦争が終った時のトシ? 今年は戦後50年というじゃあないですか。84歳からそれを引いて下さい。まだ30代の前半でした。

 あの頃はわたしも若かった。昌黎会の仲間もみんな若かった。出身地? 福岡県小郡市。盛岡高等農林(現岩手大学農学部)に入って、植物病理をやりました。兵役が終ったのが昭和9年。すぐ満州(中国東北部)の奉天(瀋陽)にあった「綿花協会」に入りました。満州でも綿はとれます。それで現地の人に綿作の奨励と指導をしていた所です。

 綿作の研究と普及に夢中になっていたら、満鉄の調査部付きとして華北に行くことになりました。満鉄に綿のことに詳しい人がいなかったからのようです。仕事は華北の綿作調査で、日中戦争が始まった時(昭和12年)は、満鉄の天津事務所にいました。

 昭和14年に『華交』(華北交通株式会社)が誕生しました。本社は北京です。その時わたしは華交本社の「資業局」に移りました。「社業に資する局」という意味で、ここでも仕事は調査でした。

 華交は5000キロメートルもの鉄道を持っていただけではありません。自動車や内陸水路による輸送もやっていました。そうした交通路は反日ゲリラにとって絶好の攻撃目標になります。そこで鉄道などの両側10キロメートルに入る村を『愛護村』とし、住民の協力を求めたわけです。村に不審な者が入ってきたら、すぐ日本側に通報してもらおうというもので、満鉄がすでにやっていたことです。

 ただいつも村民が喜びそうなことをやっていないと実効はあがりません。華交では巡回の医療班を出したり、芝居を見せたりしました。でも農民にとって本当に為になるのは農業の振興です。それで『資業局』の農業関係の職員全員を『愛路局』に移し、農産物の増産指導に当たらせることになりました。

 わたしもむろんそっちに移り、仕事も調査から愛路工作に変りました。太平洋戦争まっ最中の昭和18年5月のことでした。

 華北はもともと食糧の自給できない所でした。日本側もそれが心配で、昭和17年から大使館の内面指導ということで関係機関による『食糧会議』を開いていました。

 そこでの増産対象作物は小麦や粟などの穀物で、サツマイモは入っていませんでした。『あれは下級作物だ。中国人に食糧として増産させるのは具合が悪い』という声が強かったからです。

 それで穀物の優良種子を配ったり、かんがい用の井戸を掘ってやったりしたわけです。でも華交ではその程度のことではとても間に合わないとみていました。山東省といえば中国で一番サツマイモの多い所です。奈良で一緒だった江波戸さんが、そこの青島に近い愛護村を調べたら、村民はすでにいもの茎まで食べていたんですから。

 日本甘藷の収量が中国甘藷よりはるかに多いことはよく知られていました。華交では昭和19年に事業に着手し、翌20年に日本甘藷100万トンを一気に生産する計画を樹て、実行を請け負う案を食糧会議に出しました。もし通らなかったら、愛護村で独自にやるつもりでした。食糧事情が日増しに悪化している時のサツモイモの増産運動なら、立派な愛路工作になるからです。

 反対論はいろいろありました。でも結局は通り、資金も出してもらえることになりました。昭和21年以降の計画? なにもありませんでした。最初から2年だけの事業でした。優秀な日本甘藷を華北各地で100万トンも作れば、あとは現地人が黙っていても増やすに違いないとみていたからです。

 事実、その通りになったようですね。あの時は何種類もの日本甘藷を配りましたが、沖縄100号が一番受けたようです。あれは量が取れました。味も悪くはありません。北京で作ったのを試食しましたが、これならいけると思ったほどおいしかったです。

 昌黎会が一番活躍したのは昭和19年です。華交は華北各地に50いくつもの展示圃を作りました。日本甘藷は良い、良いと言うだけではだめだからです。まず昌黎で苗を作り、それで全展示圃で試作してみせました。

 秋に村長や有力者を招いて掘ってもらい、試食もしてもらいました。だれもびっくりするほどよくできていました。味も上々とのことでした。これで来春からの日本甘藷大増産運動に、中国側の協カを得られるめどがついたわけです。昌黎で生産した苗は展示圃周辺の中国の農家にも配られました。そしてできたいもを全部種いもとして貯蔵してもらい、翌春それで苗を作ってもらうことになっていました。

 ところが華交にはそれを指導できる人がいません。それで日本から自信のある農家の人を『実際家』ということで高給で招くことになりました。1展示圃に一人としても50人は欲しかったのですが、戦争末期のことですからね、来てくれたのは30人でした。実際家たちは昭和19年の2月頃昌黎に集まり、その春それぞれが得意とする方法で苗を作ってみました。ところが日本とは条件が違いすぎるため、どれもうまくいきません。

 そこで日本式を中国に合った方式に改良し、そ改良し、それを中国の農民に指導してもらったわけです。言葉の通じない所での慣れない仕事だったため、どなたもずい分苦労されたようです。それでも予定したぼう大な苗がなんとかなり、事業を成功させることができました」。

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