その12


『週刊少国民』(平成7年6月2日)

 今年は戦後50年という特別の年なので、当館でも11月1日から12月25日まで、特別展『戦争とサツマイモ』を開くことにしている。その資料集めの中で、川越ならではのいいものが見つかった。

 昨年、県立川越高校の3期生が還暦記念誌『おーい、楠の木よ』を出した。巻頭に写真のページがあり、その中に朝日新聞社が出していた時局雑誌、『週刊少国民』の表紙があった。太平洋戦争末期の昭和19年9月24日号で、川越のいもっ子が2人、大きく出ている。

一人は掘りたてのサツマイモを山盛りに盛った大かごを抱えてニコニコしている。もう一人はいもづるを抱えている。その右脇にたて書きで「僕らがつくった学校農園のおいも(川越第四国民学校児童)」「ふやせ食糧、つくれ笑顔」とある。

提供者は沼田芳造氏で、今は三鷹市に住んでいるという。太平洋戦争が始まると、それまでの「小学校」は「国民学校」になり、川越の仙波小学校は川越第四国民学校になった。

それにしてもあの戦争中の全国誌の表紙を、川越いもが飾ったことがあったとは知らなかった。これは展示の目玉になるぞと思ったので、一昨日手紙を出した.ぜひお借りしたいのだがと。返事はすぐ来た。今日、雑誌と、どうぞお使い下さいという嬉しい手紙が届いた。雑誌はB5判、20頁の薄いもので紙も良くない。それでも表紙だけはまあまあの紙だった。

川越いものことが本文中にもあるかなと探したが、なにもなかった。なお還暦記念誌の方にも、写真についての詳しい説明はない。沼田さんにさっそく御礼の電話をした。そしていきさつを伺うと、こういうことだった。

「わたしが、『週刊少国民』の読者だったわけではありません。たまたま表紙に載っただけです。当時わたしは第四国民学校の6年生でした。川越いもは全国的に有名だったので、それで秋の号の表紙を飾ろうとしたんでしょうね。記者は最初、市役所へ行ったそうです。そこでうちの学校を紹介されて来たようです。

当時、川越には国民学校が5つありました。その中で、いも畑の中にあったのは仙波の第四国民学校ぐらいのものでしたからね。学校にも農園があってサツマイモを作っていました。記者はいも畑の中でわたしたちの写真を撮りました。いもを抱えてニコニコしているのがわたし。隣りでいもづるを持っているのは金子 実君です。2人がモデルに選ばれたわけ? 体が大きくて元気だったからでしょう。

それからしばらくして市役所の人が家に『出たよ』と雑誌を持ってきてくれました。わたしの笑顔が大きく出ているので、周りの人から『これでは戦争に負けている気がしないね』などと言われたものです。あれから50年もたったのですね。わたしにとっては記念になる大切なものなので、保管にも気を付けてきました。それがここでお役に立つようになろうとは、思いもよらないことでした」

昭和19年の秋といえばすでに敗色も濃く、国民はやり切れない気持ちになっていた。そこで同誌の記者は明るいものを求めて川越に来たようだ。川越のいもっ子は見事、それに応えている。とくに底抜けに明るい沼田君の笑顔がいい。それは本当に敗け戦を忘れさせてくれるもので、読者も元気付けられたに違いない。

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いもの歌(8月7日)

 当館の開館は午前10時。それと同時に中年の男の3人組が入ってきて、熱心に見てくれた。そのうち親分格の人が、「川越にも、いもの歌がありますか」と聞いてきた。笠木 透氏といい、岐阜県中津川市にあるフォークソングの会「雑花塾」のリーダーだという。

 わたしは二つ紹介した。一つは太平洋戦争後、川越で最初にいも掘り観光農園を始めた中台の坂本長治さんが作った「いも掘り音頭」。もう一つは川越いも友の会が公募した歌詞数編に、フォークソング歌手の高橋 勉さんが曲を付けてくれたもの。

 雑花塾の人たちは今日の午後、川越市の山吹会館で公演することになっている。その前にちょっと時間があったので、有志3人でどこか面白そうな所へ行こうと探したら、当館があったのだという。それだけでも嬉しい話なのに、もっとすばらしいことがあった。

 笠木さんに「岐阜県にもサツマイモの歌がありますか」と尋ねると、思わぬ話が出た。

 「うち方でサツマイモの本場といえば岐阜市の東の各務原です。太平洋戦争中から戦後にかけての食糧難時代に、みんながヤミイモの買い出しに行った所です。ただせっかく手に入れたいもも、取り締まりのお巡りさんに見つかると取り上げられてしまいます。それであの辺1帯で『いやじゃありませんか軍隊は』で始まる『軍隊小唄』の替歌で、こんな歌がはやりました。そう、昭和30年頃まではまだ所どころで聞くことができました。

 いやじゃありませんか

 いも買いに

 各務原に いも買いに

 鵜沼の巡査に いもとられ

 悲しく帰ったこの私

 ほんとにほんとに悲しいわ

 鵜沼は各務原市鵜沼町です。岐阜市方面に出るにも高山市方面に行くにもどうしても通らなければならない所なので、いつも巡査が見張っていた所です」

 笠木さんは岐阜県恵那郡岩村町で生まれ育ったという。戦争が終ったのは国民学校の2年生の時。当時、家の人は山を開墾し、サツマイモを必死で作っていた。笠木さんも子供ながらそれを一生懸命手伝い、いもばっかり食べて育ったという。同氏は最近、戦争中の子供の替歌などを集めたCDブックス、『昨日生まれたブタの子が』(あけび書房、1995)を出した。幸い手持ちがあるとのことだったので1冊分けてもらった。

 それに「いやじゃありませんか芋買いに」があった。戦後子供たちが「ジングルベル」の替歌で歌ったという「いも食えばへが出るぞ ズボンが破れるへのちから ブッブッ〜こらえてもおさえても止まらない」という面白いものもあった。

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