その13


甘藷の資料館(平成7年12月7日)

 当館では11月1日から12月25日まで、特別展「戦争とサツマイモ」をやっている。昨12月6日、「朝日新聞」がそれを「家庭」欄で取り上げ、全国に報じてくれた。見出しは「イモも戦争の犠牲者。埼玉・川越で」で、電話番号まで付けてくれた。おかげで昨日、今日と当館の電話は鳴りっ放しで嬉しい悲鳴をあげた。

 一番多かったのは「日本にサツマイモの資料館があったとは知らなかった。行ってみたいので資料を送ってもらいたい」というものだった。次に多かったのは全国からの老人の声だった。「戦中、戦後の食糧難時代、おいもさんには本当にお世話になった。おたくに昔のおいもさんがあると知り、行ってみたいがもうトシだ。どこへも出られない。わたしに代っておいもさんに『ありがとうよ』とお礼を言ってもらいたい」と頼まれた。

 日本近現代史の研究者、大江志乃夫氏は近著、『満州歴史紀行』(立風書房、1995)で、戦後50年の今年は戦争を振り返る「たぶん最後にして最大の機会となるであろう」とされている。その意味はこうした高齢者の声からもよく分かる。

 面白かったのは「いも資料館は川越にしかないのか」と念を押してきた人が数人あったことだった。岡山県の笠岡市に「いもの弁さん」で通っていた渡邊弁三氏がいた。明治元年生まれでがんこ者の弁さんのトシを取ってからの願いは、笠岡に市立いも博物館」を作ることだった。戦時中からサツマイモの研究に没頭していたのと、笠岡には「いも代官」として有名な井戸平左衛門の墓所があるからであろう。

 その猛運動によって昭和27年にわが国で最初のサツマイモの博物館が誕生した。弁さんはすでに82歳という高齢だったが、自から初代館長に就任、十年後の昭和37年に92歳で亡くなるまでその職にあった。

 ただどこかに無理があったのであろう。弁さんが亡くなると「市立」だったにもかかわらず、建物も資料も跡形もなく消えてしまったという。それから30年以上もたった平成元年になって、やっとそれに続く2番目の資料館ができた。それが川越の当館で、この種のものとしては日本唯一ということになっている。

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舞鶴のタイハク(12月14日)

 最近の関東のサツマイモは肉が黄色でホクホクの「べニアズマ」(紅東)一色だが、昭和30年代までは肉がまっ白で、ねっとりした「夕イハク」(太白)があった。今日、そのタイハクを分けてはもらえまいかと、70代の男の人が来た。12月9日の「読売新聞」の「編集手帳」も、当館の特別展の内容や狙いを紹介してくれる、ありがたいものだった。

 太平洋戦争が始まったのは54年前の12月8日だった。その8日にちなむもので、書き出しは「紅赤、太白、農林1号、沖縄100号……。埼玉県川越市に、小さな『サツマイモ資料館』があり、そこに今秋収穫した40種のイモが展示されている」とあった。

 埼玉県朝霞市在住というその人はそれを見て「ここだ」と喜び勇んでやってきたのだという。そしてそのわけをこう話してくれた。

 「自分は兵隊に取られ、5年も中国にいました。最初は華北だったのですが最後は満州にいたため、終戦でシベリアへ連れて行かれてしまいました。そこの収容所でこき使われました。

 復員は昭和22年の春でした。復員船で舞鶴に着き、故国の土を踏めた時のことです。土地の婦人会の人たちがサツマイモをたくさんふかしてごち走してくれました。それは身がまっ白で、ねっとりとしたあまい夕イハクでした。そのうまかったこと、あの味は決して忘れられません。

 それから夢中で過し、気が付いたらジジイになっていました。トシを取ると昔のことや物が懐かしくなってくるものです。夕イハクもそれで、もう何年も前から探しています。でもどこをどう探しても無いんであきらめていたんです」

  タイハクが珍重されたのは、あまいものが無かった昭和20年代までだった。戦争が終って世の中が落ち着き、砂糖がいくらでも安く手に入るようになると相手にされなくなり、何時の間にか消えてしまった。

 それでも世の中にはいろんな人がいる。たとえば埼玉県でも秩父市の飯島久さんのように、だれがなんと言おうとタイハクだけを作っている農家もある。ちょうど飯島さんが送ってきてくれたばかりの夕イハクがあったので、数本分けてあげることができた。朝霞の人は「さすがは資料館だ。ありがたい、ありがとう」と心から喜んでくれた。

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石いも(12月15日)

 「戦争とサツマイモ」展も終盤に入った。すでに3000人以上の人が来てくれている。

 今日は「共同通信」の記者が来てくれた。来館者の話でなにか面白いものはなかったかと聞かれたので、いくつか紹介した。その一つにこんなものがあった。話者は東京から来た80のお婆さんだった。

 「わたしの家は東京にありました。戦争で長野のある村に疎開しました。食料難の時代で農村に居ても食糧がなかなか買えません。売ってくれたのは村一番の大きな農家一軒だけでした。その代り主人が強欲で、なんでもびっくりするほど高く売り付けました。

 ところがある年の秋、信じられないことが起ったのです。その村の疎開者10軒ほどに、サツマイモをただでやるから取りに来いと触れて回ったのです。わたしたちは大喜びでリュックサックを持って行きました。

 庭にいもが山のように積んでありました。持てるだけ持って行っていいと言うので、夢かと思いました。帰ってさっそくふかして食べたら、そのおいしかったこと、配給のまずいいもとはまるで違うものでした。

 ところが翌朝、その農家の主人が血相を変えて飛び込んで来ました。『昨日お前たちにくれちゃったのは、いいイモの方だった。本当はあれではなく、洪水に漬かっちゃった石いもの方のつもりだった。それを家の者が間違えて、水に漬かってない畑の、いいイモをやっちゃった。だからすぐ、全部返せ』ですって。こっちは『ざまあ見ろ』です。みんな食べちゃったと、突っぱねてやりました」

 終戦直後は洪水が多かった。サツマイモは3日以上水に漬かると、煮ても焼いても食えないガリガリの「石いも」になってしまう。ただ見た目は普通のいもとまったく同じなので、こういう喜劇も起るわけだ。

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