その26


来館者の声 -その1- (平成11年4月1日)

   当館のオープンは平成元年の春だったのでこの春でまる10年たったことになる。来館者は日に100人前後。この数は開館以来ずっと変っていない。年に3万人としても、すでに30万人もの人が来てくれたことになる。

 館内には部厚な『御芳名帳』が置いてある。それに気付いて住所と名前だけでなく、ちょっとした感想まで書いてくれる人がいる。今日はその感想文を読み直させてもらった。芳名帳はすでに5冊目に入っている。全部読むのにまる1日かかった。

 さまざまな人が思い思いのことを書いてくれているが、内容的には次の3つのものがほとんだった。

 まずはサツマイモの品種に関するもの。いくらもないと思っていたら、数え切れないほどあることが分かって驚いたというものだ。

 当館の展示品の目玉は生いもだ。昔懐かしいオイラン、タイハク、キントキ(紅赤)。いやでも戦争を思いだしてしまう沖縄100号、茨城1号、農林1号など。 今うまいいもの代表とされている高系14号(紅高系)とべニアズマ。

 新しいものでは肉色が紫色やオレンジ色のいも。変ったものではあまくないサツマイモや葉柄を食べるために開発されたいも、花を鑑賞するためのいも、飼料専用のいもなどが所狭ましと並べてある。

 次は太平洋戦争末期から終戦直後にかけての食糧難時代を経験した世代の声。 「戦争飢饉」当時、 サツマイモは「お助けいも」として活躍、国民を餓死から救ってくれた大恩人だった。

 3つ目は全国各地から来てくれた「おいもファン」のさまざまな声。サツマイモって、こんなにも多くの人たちから愛されているんだということを改めて教えられた。

 貴重な声なき声を世に出すのも当館の仕事の一つといえよう。開館満10年記念ということでその一部を紹介させてもらうことにしたい。感想文には名前も住所もあるものもあれば、何もないものもある。前者の名前は伏せ、性別だけを付けさせてもらった。

 

「サツマイモの種類の多いのにびっくりしました。お友達とまた来たいと思います」(平元、女)。

「わが里もいもどころなれど、ここのいものさまざまを見て驚きました」(平2、熊本県長州町、男)。

「たくさん種類があってびっくり。味も違うんだろうなあ」(平3)。

「こんなにたくさんの種類があるとは。65歳になり初めて知りました。戦前、頼りの食物でした」(平5、埼玉県小川町、女)。

「いろいろの種類のおいもがあっておもしろいと思った。がんばって全部食べたいな〜なんて思った」(平6)。

「これだけおいもを集めるのは大変だったと思います。初めて見るイモが多いのにびっくりしました」(平6、埼玉県大井町、主婦)。

「サツマイモの種類の多さと、それを使った料理やお菓子の多いのに驚きました。いろいろのお菓子作りに挑戦したくなりました」(平6)。

「神奈川県相模原市から来ました。サツマイモ資料館ができるほど、いもの種類があるのですね」(平6、女)。

「いろんな種類のサツマイモがありますのに、市販されている種類は少なくて残念に思います。太白、カロチンいもなど、もっと出回ってほしいものと思います」(平7)。

「私は戦火の中、食糧の不足で今日もいも、あしたもいもでした。しばし昔を思いました」 (平4、岐阜市、男)。

「お父さんが子供の頃食べたいもがあった。あんまりおいしそうじゃなかった。けど戦争中はそういうものを食べていたのかとはじめて知りました」(平4)。

「戦中、戦後、さつま芋で育った私たちです。あんなに食べたのにまだ大好物」(平4、埼玉県飯能市、女)。

「沖縄いも(沖縄100号)を見て戦争中を思い出し、今は本当にしあわせだと感じました」(平4、埼玉県栗橋町、女)。

「戦後間もない頃、サツマイモのつるでパンを作って食べたことを思い出しました。また、農林1号? を兄弟して秤にかけ、昼の弁当として分けたことを思い出します」(平6、栃木県足利市、男)。

「子供の頃サツマイモを主食にして生きのびたことを思い出し、平和のありがたさをつくづく感じました」(平6)。

「さつまいものイメージは戦争中の食糧ですが、今はいろいろに変化したおいもを感じます」(平6、東京都、女)。

「昭和7年生まれの主人と私。高校3年の時、同じクラスでした。戦争中は、おいもしか食べない日が続いたり、カボチャだけだったり。苦しい時代を乗り越えてきました」(平6、千葉県船橋市、女)。

「50年ぶりに農林1号、沖縄100号拝願。当時、川越へはよく来ました。いわゆる買い出しで、つらい時代でした」(平7)。

「戦争末期、母親がさつま芋を闇で買ったということで警察に呼び出され、一晩しぼられた。翌日帰ってきて『家族に食べさせるためにわずかな芋を闇で買ってなぜ悪い』と泣いてくやしがっていたことを思い出しました」(平7、埼玉県東松山市、男)。

「同世代の人たちばかり8人でまいりました。戦時中の食糧不足のこと、今になってとても懐かしく思います。今の生活をとてもぜいたくに感じました」(平7、女)。

「戦中戦後の食糧難を思い出し、さつまいもに感謝しました。沖縄100号さん、お世話になりました」(平7。)

「戦中の生活を思い出しました。米の代りにサツマイモを主食とし、学校のお弁当にも二本持って行きました。あまくなく、とても今では口にできぬ味のものです。ゴハンの中にもいもを小口切りにして入れました。イモダンゴはおやつの王様でした」(平7)。

「昭和19年、旧制中学1年の時、生物の大石先生はいい成績を取るとごほうびにさつまいもの苗をくださった。農林1号ではなかったろうか? それをうちの畑に持ち帰り、大切に植えた。 ラジオでは『いもなり、さつまいもなり、その形つむに似てべニアカという』という詩の朗読があった」(平7、船橋市、男)。

「戦中戦後を思い出しました。沖縄(100号)はとてもまずくて、昼飯がまたいもかと泣き出した子がいました。半世紀も昔の話です」(平9)。

「いもは戦時中を思い出します。米の代りの食糧でした。今はおいしいおいもで〜す。昔は沖縄の水っぽいまずいものでした」(平10、東京都、女)。

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