その28


疎開者のいも畑(平成11年7月13日)

 終戦が八月十五日だったからであろう、毎年夏になると戦争中のサツマイモのことを話してくれる人が多くなる。

 当時、埼玉県比企郡のある村に疎開していたという男の人が来て、こんな話をしてくれた。

 「おれんちは東京にあった。 戦争で田舎の親類を頼って疎開した。そこは荒川の土手のそばの農家だった。納屋を借り、一家五人で住んだ。おれが小学校三年の時だった。その頃は農村にも食糧がなかった。僅かな配給品しか手に入らない。家中の者がひもじい思いをしているのを見て、親は畑を借りていもを作ろうとした。

 疎開先の親類に畑を貸してもらおうと何度も頼んだが、貸せる畑はないと貸してくれない。それでも頼み続けたら、荒川の堤外の桑畑ならと、しぶしぶ貸してくれた。そこは大雨が続くと川の水面が上り、水に漬かってしまう河川敷だった。それで水が出ても大丈夫な桑ぐらいしか作れない所だった。その桑の株と株の間ならサツマイモの苗を植えてもいいということになった。

 わが家は大喜びで、さっそくそこに家中でいもの苗を挿した。ところが九月に入るとすぐ、心配してた台風が来た。荒川の水位が上り、やがてうちの桑畑も水に漬かりだした。

 サツマイモは何日か水に漬かっていると煮ても焼いても食えないガリガリの「石いも」 になってしまう。親たちはそれを知っていたので、もうだめだとなった時、いもを掘ることにした。

 それは暴風雨のまっ最中の真夜中だった。おれは寝ていたところをたたき起こされ、河川敷の桑畑へと走った。畑の水はもうおれの腰まできていた。濁流がゴウゴウと流れていて怖かった。闇夜の川で流されたらおしまいなのはだれもが分かっている。家中の者が一か所に集まり、声を掛け合いながら手探りで泥水の中のいもを取った。

 まだ夏が終わったばかりで、いもを掘るには一か月も二か月も早かった。だからいもはどれもちっこい奴ばかりだった。それでも一本でも「石いも」にしたくない。これ以上畑にいると押し流されてしまうというぎりぎりまで必死でいもを探った。

 あの夜のことは今でも忘れられない。 頭に焼きついている。疎開者には『いも』というと、他の人には分からない特別の思いがあるんだ」。  

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いもの力ラ(平成11年7月30日)

 甲府市近くの農村で育ったという主婦が来て、こんな話をしてくれた。

「小学校の時は戦争のまっ最中だった。宿題は算数や漢字書き取りではなく、作業ばっかりだった。たとえば秋にはサツマイモのカラ取りをやらされた。先生が明日、学校にそれを何百匁持ってこいなどと言う。

 『カラ?』クキのこと。『葉柄』ね、むずかしく言うと。あれはいくら取っても、なかなか目方が出ない。早く取って遊びたいのにそうはいかない。それでもそれが生でよかった時はまだよかった。そのうちにカラカラに干したものを一人、何十匁持ってこいとなった。

 干すと目方はもっと出なくなる。だから毎日、いものカラ取りに追われてた。都会の人もあんなものを食べさせられてたんだから、ひどい時代だったねえ」

「終戦後のある日、母が米との物々交換で鮭缶を手に入れた。そのサケといものカラを一緒に煮てくれた。そのうまかったこと、世の中にこんなにうまいものがあったのかと驚いちゃった。あの味は今でも忘れられないね」。

 

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渥美清の好物(平成11年9月10日)

 昨夏、小豆島の土庄町に行った時、ある鮨屋の主人から「サツマイモといえば渥美清も大好きだったんですね」と言われた。耳よりな話だったのですぐ確かめるつもりだったのがのびのびになり、今日になってしまった。

 渥美は昭和三年生まれ。いわゆる「昭和ヒトケタ」だ。東京の上野に生まれ、役者としての経験を積むうちに、映画監督の山田洋次にめぐり会う。同監督の「男はつらいよ」の主役、寅さんを演じて大受けした。今から30年前の昭和44年(1969)のことだった。

 それに気をよくした関係者は「男はつらいよシリーズ」を企画、毎年1〜2作のペースで寅さんものを世に出してきた。最終作になった平成7年の「寅次郎紅の花」は第48作だった。如何にこのシリーズが当っていたかがわかろう。

 渥美の人気は衰えることを知らなかったが、すでに体調を崩し、それを押しての出演が続いていた。それもかなわなくなり、平成8年の夏、亡くなった。68歳だった。

 没後、国民栄誉賞を贈られているし、今夏には寅さんのゆかりの地、柴又に寅さん像もできた。それほどの大物だっただけに、渥美が亡くなると故人をしのぶ本もどっと出た。川越市立図書館でちょっと探しただけでも10 冊あった。

 まず読んだのは渥美清が亡くなった直後に出た『寅さん、ありがとう!それを言っちゃあおしまいよ』(渥美清を送る会編、鹿砦社)だった。それには期待に反してこうあった。「昭和ひとけた生まれというのは、育ち盛りを大戦争の最中に迎えているから、本当にしょうがない。思想は鬼畜米英だし、食べものはない。特に東京の下町などは何もないといっていいくらいで、主食はサツマイモ、菜はカボチャ」だった。

 「渥美もこうした環境の下町で育ったから、死んでもサツマイモは食いたくないクチだったろう」あれれっ、いきなりこれではだめかなと思った。それはそれとして渥美関係の本はどれも面白い。気を取り直して片っ端から見ていくと、一冊だけだったが探していたものが出てきた。役者で渥美清の付人でもあった篠原靖治の「生きてんの精いっぱい 渥美清」(主婦と生活社、1997)で、こうあった。

 「地方へロケに行っても、食事はごく質素なものでした。朝は旅館やホテルの中の食堂での和食、昼はやはり日本そばかラーメン、またはふかしいも。夜もご馳走というよりはおいもの煮っころがしのような物を何品か選んで食べます」 「宿の人と仲良くなってくると、さつまいもをふかしてもらったりもします。渥美さんはこれが大好物で、ロケ現場にまで持って行くのです」

 長年、「シノ、シノ」と可愛がられてきた人の証言だけに重みがある。渥美清はいも嫌いの多い世代の一人だが、他の人たちとは違っていた。なぜか、それが本当に好きだったようだ。

 

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