その30


版画、「雪の高田市」(平成12年6月3日)

 本誌101号に内田静馬先生の計報があって驚いた。 先生は明治39年生まれ。ご高齢ではあったがお元気のこととばかり思っていた。

 先生は若い頃から木版による創作版画の製作に打ち込まれ、終生変わることがなかった。その仕事振りの一端は本誌の表紙をたびたび飾ってこられた作品からも知ることができる。

 わたしが初めて内田先生にお目にかかったのは、川越ペンクラブの代表幹事だった東郷博氏(故人)のお宅でだった。そう、20年以上も前のことになる。

 当時、東郷邸は丸広百賃店の隣りにあった。もてなし上手だった東郷さんのお人柄と場所がよかったからであろう、そこは会員にとって居心地のいい溜り場になっていた。いつ行ってみても、いろんな人がきていてにぎやかだった。

 桶川市在住の内田先生も川越に出てくるとそこに寄るのを楽しみにされていたという。そこで東郷さんはこんな風に紹介してくださつた。「この方は版画家で、戦前から知られていた人です。戦前すでにその作品はルルーブル美術館に買い上げられています。戦争直前にあった全国展、版画による日本百景展に応募、見事入選されてもいます」

 力のある人であることはすぐ、よく分かった。でも当の先生には偉ぶるところが少しもなかった。温顔のもの静かな人で、こう言われた。「そんなことよりどうです、こんどはうちにも遊びにきませんか」

 先生の息子さんの紀成さんが、わたしと川越高校の同期だったこともあり、その後何回もお邪魔するようになった。その頃の先生は版画の製作だけでなく、無名の職人の手になる「民画」の研究にもカを入れられていた。その対象はとても広く、古版画、錦絵、絵草紙などの挿し絵、陶磁器や漆器、織物などの絵、絵馬、絵礼、大津絵、灯籠絵などにわたっていた。

 絵のことに暗いわたしにも、職人が繰り返し描き続けたこういうものなら分かる。興味もわいてくる。先生はそのコレクターでもあった。お宅に何うと手持ちのそれらを部屋いっぱいに並べ、それぞれのどこがどういいのかを教えてくださった。

 こうした研究成果の一部は、先生が書かれた『木版画の製作技法』(理工学社、昭和47 年)にすでにある。 その後、研究を一層進められ、やがて『日本の民画』(同社、昭和53年)として世に出された。学者や評論家による民画関係の本は多いが、画家によるものは珍しい。

 こうしたお付き合いをさせてもらっているうちに、東郷さんがわがことのように自慢された例の作品の一つ、日本百景展の入選作を見せてもらうことができた。豪雪で有名な新潟県高田市(上越市)の雪景を描いたもので、画題は「雪の高田市」。昭和15年の作だ。

 埼玉の桶川市と越後の高田市とでは、ちょっと結びつかない。これにはわけがある。昭和2年に旧制の東京高等工芸学校(干葉大)を出られた先生は工芸の教師になられた。それで高田の学校にも居られたことがあった。

 ここの冬のどうしようもない大雪に、最初は戸惑われたという。でもその中で黙々と暮らしている人たちの姿を見ているうちに、それを板に刻みたくなったという。そんな時、たまたま百景展の公募があったので、一気に製作したものがこの作品という。

 舞台は町の中心部。雪の晴れ間の昼の情景で、画面のまん中に横に一本、大通りが走っている。その向側の奥に木造洋館の頭部が見える。役所か銀行の感じだ。その手前に三階建ての大きな建物があり、たてに「東京パン」と書いた看板が出ている。やはりたてに「コーヒー」とある旗も立っている。地方にあっても、この国の流行に遅れまいとする意気込みが感じられる。

 通りのまん中を雪ぞりを引いて行く人がいる。雪かきをしている人もいる。どこの家の屋根にも雪が厚く重く載っている。

 大通りの手前は焼き芋屋で「名代やきいも」とある看板がある。雪に埋もれている町にはもってこいの店だ。それにしても思いがけない所に焼き芋屋があって嬉しくなってしまった。

 話が飛ぶが、江戸は焼き芋屋の多い所だった。明治になって江戸が東京と変っても、焼き芋屋は衰えるどころか逆に一層繁盛し、黄金時代を迎えた。首都のこの動きを地方都市の人が見逃すはずがない。明治になると全国の町々に焼き芋屋が現われた。高田の焼き芋屋もその流れの一つとみてよかろう。

 今、焼き芋というと引き売りの「石焼き芋」が普通だが、これは太乎洋戦争後に現われた新式だ。戦前の焼き芋屋はどこでも自分の店で売っていた。店の土間にカマドを築いて焼く「カマ焼き」か、壺を置いて焼く「つぼ焼き」だった。

 石焼き芋は高価なものの代表になってしまったが、戦前の焼き芋は食べ物の中で一番安いものだった。だからだれにでも気軽に買えるおやつだった。

 焼き芋からみればパンやコーヒーは新しい。第一次世界大戦による戦争景気で、国民の懐具合がよくなった。それではやりだした。時代の先端を行くハイカラなものだが、値段も張るものだった。

 町のまん中で伝統的なおやつと新興のスナックが張り合っている構図がおもしろい。それともう一つおもしろいのは看板の使い方だ。この絵ほどその文字を効果的に活かしているものはない。「雪の高田市」は先生にとって思い出深い自信作だったので、とりわけ保管に気を配られてきたようだ。

 昭和五十一年に文芸春秋社から『文芸春秋デラックス 版画名品集 日本の抒情』が出た。その中の一点にこれがある。原画は色刷リだが、これは白黒だ。内田版画のファンとしては残念だが、こうした形で世に広く知られるようになったことだけでもよしとし、喜ばなければならないのであろう。日本百景展は昭和15年。太平洋戦争の始まる前年だった。同展の入選作百点中、同書にあるのは内田先生のものだけだ。他の作品の多くは戦争で散逸してしまったに違いない。

 先生は戦後、「雪の高田市」の縮小版を作られた。ある時、川越であった先生の個展でそれを見て求めさせていただいた。この作品の店の看板は前のものより割合が大きくなり、一層目立つようになつている。「名代やきいも」の文宇は赤地に白地で抜いてある。「東京パン」は黄色地にネズミ色の字で書がれている。「コーヒー」の旗は省略されてない。

 わたしはわが国の「焼き芋の文化史」をまとめるつもりでいる。その時には「雪の高田市」も使わせてもらいたいと思っていた。それが間に合わなくなってしまい、残念でならない。

 

  

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