その31
当館の展示品の一つに、サツマイモをスライスする道具、手回し式の「いも切り機」がある。昔はこれで作った切り干しを粉にして、よくサツマだんごを作ったものだった。
愛知県から来たという70代の婦人がそれを見て戦時中のことを思い出してしまったと、こんな話をしてくれた。
「わたしは戦時中に看護婦の養成所を出て、瀬戸市にあった大きな病院に勤めました。看護婦は全寮制でした。そこの食事は量も少ないし、質もよくありませんでした。いも粉を水でこねます。それを丸めて押しつぶし、円盤状にして蒸した、まっ黒なものがご飯代わりによく出ました。サツマダンゴの変形です。色も形も円盤投げの円盤そっくりだったので、「エンバン」と言っていました。
先輩たちはそれが嫌いで、それが出ると「こんなもの食えるか」と食堂の外に投げ捨てていました。寮に長くいる人たちは国元からお米を取り寄せていて、ご飯が気に入らない時はそれを炊き、勝手に食べていました。
ところが新米看護婦のわたしたちには、そんなわがままは許されません。食べ物は寮で出るものだけです。食べ盛りということもあって、いつもお腹がペコペコでした。だからエンバンだって何だってガツガツ食べました。
本当は先輩たちが捨てたエンバンだって欲しかったのです。なんてことをするんだ、もったいないと何度思ったか知れません。でもこっちにも意地があったのでしょうね。「捨てるなら、わたしたちにください」とはどうしても言えませんでした。」
長野県の上田で農業をやっているという男の人が来た。昭和6年生まれという。当館売店で売っているサツマイモのクキ(葉柄)の「しょうゆ清け」を見て、こんな話をしてくれた。
「やあ、いものクキか。昔よく食べたなあ。これにお目にかかったのは50年ぶりかな。うちの方でも戦争中から終戦直後にかけて、サツマイモをたくさん作った。今は作ってないがね。
その頃の作り方? 信州は高冷地だから、ウネをできるだけ高くして、お日様の光がよく当たるようにしろと言っていたね。品種は護国いもだった。タイハクもあった。いもだけでなく、いもの蔓まで供出した。
蔓は町の製粉工場に持って行った。そこでは乾燥機でそれをカラカラに乾かし、粉にひいていた。それを小麦粉に混ぜていた。桑の葉も供出した。使い方はいも蔓と同じだった。粉になるものはなんでも粉にして、小麦扮に混ぜていた。あの頃の食べ物の質はそこまで落ちていた。」
八重山諸鳥の中心地、石垣市に来たのは今回で3度目。おみやげ屋「みき」の主人がこんな話をしてくれた。
「戦後、沖縄にもたくさんの人が引き揚げてきました。その数が一番多かったのは沖縄本島でしたが、ここは開拓の余地のない所です。それで琉球政府は土地のゆとりのあった八重山開発を進めました。その中心がこの石垣島で、たくさんの入植者を迎えました。
その人たちが開墾地で一番作ったのはサツマイモでした。どんな所でもよくできたのと食糧難時代だったので、いい値で飛ぶように売れたからです。
その後、いも畑はパイナップル畑になりました。それが今はご覧のように、サトウキビ畑か肉牛用の牧草地になっています」。
月刊誌「味の味」のライター、神田美枝さんが取材に来てくれた。仕事が終わって雑談になった時、こんなことを言われた。
「今は全国の有名な店の、すばらしい味を紹介させてもらっています。それはそれで大事なことです。でも時々、それだけでいいのかなと思うことがあります。
わたしの子供の頃は戦争による食糧難の時代でした。わが家はそれが特にひどかった東京にありました。いつも食べるものがなくて、ひもじい思いをしていたものです。
その頃の配給食糧で多かったのはサツマイモでした。母と一緒にリュックを持って配給所ヘ、それをもらいに行きました。配給いもの切り口は花びらのようになっていました。そうそう、沖縄100号といいました。わが家がもらういもはいつもそれでした。味のない、ベチヤベチャのまずいいもでした。
でもそれがあったおかげで、わたしたちの今があるわけです。それなのにどうしてなんでしょう、あの時代のサツマイモの役割を取り上げ、その値打ちを見直す歴史家が1人もいないのは。
若いつもりでいたわたしたちも、いつの間にかトシを取ってきています。このままではあのにがい経験も後世に伝えられなくなっでしまうでしょう。
風化させたくない。風化させてはいけないと思っています」
わたしの思いも神田さんとまったく同じだ。でもそれをここまではっきり話してくれる人は、そうはいない。戦争飢餓時代のサツマイモについて、ちょっと触れている本はいくつかあるが、本格的なものは見当たらない。
戦後地方史の研究が盛んになり、市町村史も続々と刊行された。それにその記述があって当然だと思って目を通しているが、めぼしいものは少ない。苦しかった時代の、いやな惨めな思いには触れたくないというのだろうか。
佐賀県三養基郡基山町から、藤田義則さんが来てくれた。同町は福岡県との県境にある静かな所だったが、さいきん急に変わりだした。道路事情がよくなり、福岡市への通勤可能地になった。それで住宅団地などもできるようになり、活気が出てきたという。
藤田さんは50歳。農業をしながら「北俣」という雑誌を出している。自然と農業を大事にする人たち向けのもので、年1回刊。毎回、特集を組んでいて次号はそれがサツマイモだという。
同誌のバックナンバー、1998年号を頂いた。その特集は「もうひとつの戦争−帰らざる軍馬」だった。旧日本軍の人間の招集令状は赤紙だった。馬にも軍馬としての召集があり、その令状は「青紙」に書かれていた。
そういうことを知っている人は、もう80歳以上になっている。それだけに取材に苦労されたそうだが、内容がすばらしい。いい仕事をしている人だなあと感心した。
軍馬ほどではないが、サツマイモも昔のことを知っている人が年々少なくなっでいる。基山町の古老から昔のサツマイモの品種と作り方、貯蔵法、食べ方などをできるだけたくさん聞いて頂きたいとお願いした。