その34


いも講話(平成13年4月22日)

 今日は川越ペンクラブの総会の日だった。それが終わってからのこと、ある女性会員からこう言われた。 「館長さんはさいきんいろんな所でおいもの話をされていますね」

 たしかにここ2〜3年、そういう機会が急に増えた。ありがたいことだが喜んでばかりはいられない。主催者や会場は違ってもちいさい町の中でのことだ、前に来てくれた人がまた来ていることがある。
 それでやりにくくなる。前と同じ話はしたくない。といっても話の柱は変えようがない。枝葉の部分を変えるしかない。ただそれもいいものがたくさんあるわけではない。さいきんはその種が尽きてきて困っている。そんなことを言っていたら何人もの婦人会員が周りに集ってきた。そして口々にこう言って励ましてくれた。

「そんなことちっとも気にすることはないわ。聞き手は館長さんのおいもへの思い入れを聞きたくてきてるの。それが伝わってくる語り口に惚れてきてるの。

 歌手の持ち歌と同じことよ。あの人たちはいつでも、どこでも同じ歌を歌っているわ。ファンもそれを聞きたくてきてる。それなのにその日に限ってそれがなかったらどうなります? がっかりしちゃうわ。
 館長さんのいも話だって同じようなもの。来るのはおいもファンなんだから同じ話を何回やってもいいの。そのほうがずっと受けるわ」

 これには参った。そういう考え方もあったのかと恐れ入った。

  

  

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物々交換(平成13年4月26日)

 ゆうべのNHKテレビ、 「その時歴史が動いた」 は、「日本を救ったサツマイモ 町人・青木昆陽 大抜てき」 だった。今日はそれを見て戦争による食糧難時代のことを思い出してしまったという老人が何人も来た。川越のある農家の主人もその1人でこんな話しをしてくれた。

「わしも70半ばになった。戦争中は農家の者までが食う物に困ってた。うちの方には田んぼがなかった。畑ばかりの所だ。食い物といえば麦とサツマだけだった。そのサツマもくずいもばかりだった。苗床の苗を取ったあとの種いもまで食ったんだぜ。あれは人間の食うものじやあない。それほどまずいものだつた。

 農家の者がなんでそんなものまで食わなければならなかったのかって? 国に納めなければならない供出割り当てがきつかったんだ。麦やサツマをいくら作っても手元に残らないようになっていた。そこをごまかしてサツマをいくらか浮かしたんだが、それは自分の家の食べ料ではなかった。

 当時の農家が一番困っていたのは衣料品だったが、その配給はほとんどなかった。農家は毎日が重労働なので下着も作業着も傷みがひどい。だれもが継ぎはぎだらけのボロボロのものを身につけていた。

 川越は東京に近い。そこからサツマの買い出しに来る人が多かった。農家はその人たちに金では売りたがらなかった。なにしろ今と違ってモノがまったくない時代だった。金があっても1本の手ぬぐいも買えなかった。だから物々交換になった。それも衣料とサツマというのが多かった。そうなると相手も必死だ。向うにとっても必要な、なけなしの衣類を手放すわけだ。くずいもなんかとでは話にもならなかった。だから農家はいいいもは交換用に残し、くずいもを食ってたんだ。

 それにしてもあの頃はひどい時代だった。飢饉と同じようなものだった。それでもサツマがあったから、なんとかなったんだ。それを忘れてはだめだ。ばちが当たるよ。

 わしはこのいも資料館の前を何度も通っている。でも中へ入ったのは今日が初めてだ。サツマを大事にしている所が川越にあって嬉しいよ」。

  

  

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いも嫌いの戸まどい(平成13年5月3日) 

 東京から来たという70代の女性がこんな話をしてくれた。

「わたしたちの育ち盛りは戦争でした。お米の代わりにサツマイモとカボチャをいやというほど食べさせられました。それでこの世代の者はこの2つだけはもう絶対に食べまいと決めたはずです。むろんわたしもそうです。

 ところがいつの間にかそれが崩れていたんですね。わたしは40年前にフランスに渡り、去年帰国しました。日本に帰って一番驚いたのは、日本人のだれもがサツマイモ好きになっていたことでした。スーパーの野菜売り場にはおいしそうなおいもが年中あります。デバートで人が行列してまで買っているものの多くは、おいものお菓子です。 『え、なんで?』 と思いました。

 同じ世代の友達にわけを聞いてみました。でもまじめに答えてくれません 『そんなことどうでもいいじゃあない。今のおいもはとってもおいしいのよ』 で終りです。それで今日はここへ来てみたというわけです」

 戦後、サツマイモの時代は終ったと思われた時期があった。それが20年ほど前から、健康食の一つとして見直されるようになった。わたしはそのいきさつを話してあげた。

  

  

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総合学習と戦争飢饉(平成13年6月13日)

 香川県高松市香東中学校の堀尾先生からこんな電話があった。

「わたしは1年生の総合学習でサツマイモを扱うつもりです。ただわたしは戦後生まれで戦争による食糧難を知りません。そういう者が子供たちに食糧の大事なことを教えるのですからむずかしいです。
 そこで戦争による食糧難をくぐってきた人たちの声を伝えるのがいいのではないかと思い、いろいろ調べてみました。すると一番多いのがサツマイモ関係のものでした。

 サッマイモ資科館では当時大活躍した沖縄100号や農林1号などを今でも展示されているそうですね。そのおかげで命がある人の中には、その前にくると思わず手を合わせて拝む人がいるそうですね。 『あの時はお世話になりました。ありがとうございました』 と。

 わたしが探していたのはこれだったと思いました。そこから入っていきたいです。そういう人たちの声なき声を書き留めたものがありましたら、送って頂けませんか」

 わたしも戦争飢饉の体験者の一人だ。協力させてもらいたいと思った。幸いそういう立場からこの『武蔵野ペン』に書かせてもらったものがいくつもある。

 その中から「週刊小国民」・「いもの歌」(83号)、「石いも」(84号)「終戦の日の食卓」(91号)、「疎開者のいも畑」・「いものカラ」(99号)、「円盤」・「いもの蔓」・「風北が怖い」(103号)、「ジャングルの中でのいも作り」(104号)などを送ってあげた。

  

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