その41


奈良県南部でのいもサミット(平成15年1月30日)

  昨秋、奈良県南部農林振興事務所からこんな電話があった。うちでは平成十年から毎年「農と文化を考える集い」を開いています。最初は「おかい(おかゆ)さん」サミット。 以後「もち」、「まめ」、「つけもん」、「みそ」と続けてきて、来年は「いも」となりました。ついてはその基調講演をやっていただけませんかと。

 同所の管内は奈良盆地の南に展開する山間地。五条市と吉野地域の三町十か村よりなる広大な地だ。そこには桜で有名な吉野町やニホンオオカミの最後の捕獲地となった東吉野村、十津川郷士で知られる十津川村などがある。わたしにとっては未知に近い所だが、ありがたい、これを機に新しい勉強ができると思った。それで喜んで引き受けさせてもらうことにした。

 それにしてもそこはサツマイモやジャガイモの産地とは思えない所ではないか。それなのになんでいもなのかがわからなかった。その点を事務局の澤村泰則さんに尋ねてみると、こういうことだった。 「このサミットは最初から管内のどの市町村にもあるものを取り上げてきました。サツマイモもジャガイモも、そしてサトイモも売るほど作っている農家はないようです。そのかわり自家用ていどなら、どこの家でも庭先で作っています。それでこんどはいも類でいこうとなったのです」

 なるほどそういうことなのか、それならわかると思った。

 わが国の食生活は戦後はどこでも同じようなものになった。だが戦前は地域性が強く出ていた。戦前の奈良盆地とその周辺は「大和の茶がゆ」と言われていたように、茶がゆで知られていた。  奈良盆地は古代からの水田地帯だったが農家の保有米は常に乏ぼしかった。それを食い延ばさなければならなかったので、年中、朝夕は茶がゆ、昼は麦めしだった。その南の五条・吉野地域は山深い地だけに、米事情は一層厳しくなった。

 ここでも朝夕は茶がゆ、昼は麦めしだったかそれ用の米はさらに少なくなった。そのような茶がゆの腹もちは特に悪い。いくら食べてもすぐ膜がへる。そこでそれにいろいろの具を人れた。サツマイモ、ジャガイモ、サトイモなどのいも類も茶がゆの具としてよく使われた。

 その辺のことは農山漁村文化協会の『聞き書 奈良の食事』(1992)に詳しくある。たとえば昭和初期の十津川村出谷(でだに)の食事情がこうある。

 毎日朝夕食べる「茶がい(茶がゆ)」は天井の垂木(たるき)が映るほど薄い。昼は米が二割ほどの麦めし。男は山仕事で山に入ることが多い。その時持っていく弁当もこの麦めしだった。  ここにはサツマイモもジャガイモもサトイモもある。その中で一番大事なのはサトイモだった。ここで「いも」といえば、「サトイモ」のことだった。秋から翌年の五月中旬まで、サトイモの塩炊きを食べない日はない。おかいさんに入れるいもも、サトイモが一番好まれる。

 サツマイモはできると軒下の大いもつぼに入れる。サトイモより寒さに弱いので、これから食べる。 塩ゆでにもするが、保存食として「干しいも」をどっさり作る。  生いもをスライスして干したのが白干しゆでて干したのがゆで干し。そのどちらでもいい、たっぷりの水でやわらかくなるまで炊く。少しの塩で味をつける。ごはんがわりにもなるが、たいていはおかいさんに添えておかずのようにして食べた。

 それにしてもここではいも類の王様はサトイモだった。祈をみてそのわけを調べてみたくなった。  昨夜は五条市内の旅館に泊まった。今日はいもサミットの当日で、会場は五条市市民会館。ま冬の寒い日だったが雪の深い山奥の村々からもたくさんの人がきてくれた。

 午前中は展示ギャラリーでのいも類関係の品々の展示で、わたしの話は午後からだった。前者の中心は五条・青野地域のさまざまな生いもといも料理で、市町村別に並べられていた。

 いも料理でおもしろいと思ったのは、今風の創作料理がなかったことだった。むかしから土地土地に伝わっているふだんのもの、当り前のものがほとんどだった。おかげで一番見たかった「いも茶がゆ」にもお目にかかれて嬉しかった。そこには「じやがいものおかいさん」(天川村)、「サツマイモのいもがゆ」(下市町)、 そして「里芋の茶がゆ」(上北山村)があった。そのどの茶わんにもまん中に大きないものかたまりがどーんとあった。

 生いもでびっくりしたのは十津川村の所だった。そこには「護国藷」(ごこくいも)そのものと、それで作った白干し、ゆで干しがあった。

 護国藷は昭和13年にご三重県農事試験場が世に出した「多収いも」だった。昭和の軍国主義時代のわが国は、石油不足対策の一つとしていも類、とくにサツマイモに着目した。それから燃料用アルコールを作り、ガソリンに混入してその節約を図ろうというわけだ。

 護国藷は東海地方から九州にかけての温暖な地で盛んに作られた。そこでは作りやすく、収量も多かった。アルコール原料にも食料にもいい便利ないもで、文字通り国をまもるいもだった。ちなみに当時の関東・東北での多収いもの代表は「沖縄100号」だった。

 それにしても今なおその護国藷があったとは驚きだった。こういう所は全国にもそうはあるまい。会場に詰めていた十津村役場の職員にこのいものことを聞いてみると、こういうことだった。

「護国藷は一昨年までは方々にありました。農産物の品評会にそれが何点も出ていました。ところが去年のことです。どうしたわけか護国藷なんかやめた。もう作らないとなってしまいました。それでも八十のあるお婆さんだけはやめずに作りました。ここにあるのはそのお婆さんのものです」

 わたしが見た護国藷は、今まさに幻になろうとしているものだったわけだ。そこで午後の講演の時、このいもの歴史のことも付け加えた。十津用村役場の人も、そういういもなら残すようにしましょう。まだ間に合いますと言ってくれた。

 

 

 

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