その43


紫いもが出はじめた頃のこと(平成15年10月17日)

 当館の秋の特別展「紫いも展」は、明日10月8日から11月24日までと長い。

 サツマイモの原産地は熱帯アメリカとされている。そこには肉の色が白や黄色だけでなく、紫のものやオレンジ色のカロテンいももあると聞いている。わが国のサツマイモもそっちから回り回ってきたものだが、ここのいもは白か黄色だった。紫いもやカロテンいもは一部のごく限られた地域にしかなかった。

 それがここ20年ほどで大きく変りだした。紫いもやカロテンいもを世に出そうとする人たちのおかげで、わが国のサツマイモの世界も急にカラフルになり、華やかになった。利用法は当初はいも料理、いも菓子中心で進んだが、やがてそれぞれのいも特有の機能性の研究が進み、新商品が続々と開発されるようになった。パウダー、ジュース、酢、食品添加用紫いも色素などがそれで、それ用のいも畑も増えだした。今日はこの新しい流れの中の始まりの部分を、自分の見聞をからめてまとめてみた。

 わたしがわが国にも紫いもやカロテンいもがあるのを知ったのは遅かった。昭和62年の夏のこと、川越のいも仲間10人ほどで鹿児島県下の「いもどころ」を回った。その一員だったわたしが一番驚いたのは、農林水産省九州農業試験場指宿試験地へ行った時だった。

 ここの研究室長は梅村芳樹先生で、鹿児島県の各地から集めたさまざまな紫いもやカロテンいもを元に、よりよい新品種の育成に力を入れられていた。色鮮やかな紫いもやカロテンいもを初めて見せてもらっただけではない。それで先生自らが作られたというシャーベットやジャム、ようかんなどをごちそうになった。そのうえこういう新しいいもが今なぜ必要なのかという話まで聞かせていただき、ただただ驚くばかりだった。その話とはこういうことだった。

 サツマイモは南九州の基幹作物だが、前途は厳しい。ここのいもの最大の用途が、国際競争力の弱いでん粉用だからだ。それでいも畑を守るには、でん粉いもを青果用や食品加工用に転換するしかないとなった。

 ただ青果用は専業農家でないとむりだし、用途も蒸しいも、焼き芋、天ぷらぐらいだから大きな伸びは望めない。となると加工用を伸ばすことを考えるしかない。それには発想の大転換が必要だ。わが国のサツマイモにはむかしから貧乏イメージがつきまとってきた。それを取り除かないことには、いいものを作ってもうまくいきそうにない。

 それで目を付けたのが紫いもとカロテンいもだった。わが国ではほとんど知られていなかったその新しいいもで、ヘルシーでカラフル、そしてデザート感覚のおしゃれないも料理やいも菓子を作る。それでいものイメージチェンジを図り、イメージアップをねらおうとなった。

 それにはそれ用の作りやすくて収量の多い新品種を作らなければならない。今はその仕事に熱中しているというところ。

 わたしたちが指宿試験地を訪ねた時にはすでにカロテンいもの「ベニハヤト」が育成され、そのペーストの製造が始まっていた。一方、紫いもはこれからで、その代表はまだ在来種の「山川紫」だった。それでもそれを使ってのさまざまな加工品が作られていた。

 それがよくわかるものに、鹿児島県当局主導の「さつまいも食品コンクール」がある。第1回は、わたしたちが鹿児島に行った昭和62年だった。その出品目録を見ると最初から多くの企業が参加し、いも菓子を中心とするさまざまなものを作っている。その中で最初から目立ったのは、従来の黄色のいもに紫いもとカロテンいもを加えた「三食いも」だった。ちなみに初会の最優秀賞は、鹿児島市の磯珈琲館の三色いもアイスだった。

 年1回のこのコンクールは現在まで続き、毎年『入賞作品集』を出している。その基調は一貫して三色のいものおしゃれな使いこなし方で、その中から優れた商品が続出した。それに刺激され、全国の菓子業者が鹿児島県などから紫いもやカロテンいもを取り寄せて使うようになったので、その普及は意外なほど早かった。その点からもこのコンクールの効果は絶大だった。

 話が飛ぶが平成5年に沖縄本島の読谷村で「全国甘藷シンポジウム」が行なわれた。(わたしがサツマイモのことで沖縄に行ったのも遅く、それへの参加が最初だった。

 太平洋戦争の沖縄ではサツマイモが常食だった。ここには紫いももあったが、常食用は白か黄色のいもだった。沖縄と言えば紫いもとなったのは、ついさいきんのことで、それも沖縄本鳥の読谷村のむらおこし運動によるものだった。終戦後間もなくの昭和22年に、宮古島の宮古農事試験場で紫いも、「宮農36号」が育成された。これは味のいいいもだったが作りにくく、どこでもできるというものではなかった。

 読谷村はむかしからうまいいもの産地として知られていた。それでであろう、那覇の焼き芋業者が宮農36号の苗をここの二軒の農家に渡し、試作してもらった。予想通り結果がよかったので、同村でこの紫いもを作る農家が増えた。

 読谷村商工会は昭和61年から、むらおこし運動を開始した。当時の村の代表的な農産物は紫いもになっていたので、それを「紅いも」と称し、運動の中心に据えることにした。平成元年、同会は「ホクホク討論会」を開いた。ねらいはむらおこしは紅いも中心で行くという意志統一と、そのための紅いもの加工品作りをどう進めるかにあった。

 そこに招かれた梅村芳樹先生は鹿児島県での紫いもやカロテンいものめざましい発展状況を紹介されながら、へルシー、ナチュラル、ファッショナブルの3つをキーワードとして本気で取り組めば、読谷村でも成功は間違いなしと励まされた。

 それに力を得た村人たちは紅いもの加工品作りに励んだ。全国甘藷シンポはその成果の発表の場でもあった。会場内の展示場には、紅いもで試作したさまざまないも料理、いも菓子がところ狭しと並べられていた。その中からやがて優れた紅いも製品が続々と生まれ、今では「紅いもと言えば読谷村」、「読谷村と言えば紅いも」と言われるまでになっている。

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