その45


中国河北省石家荘のつぼ焼き(平成15年11月15日)

 東京からサツマイモが大好きという人がきた。70近い女の人で、こんな話をしてくれた。

「わたしは戦争中、中国にいました。まだ子供で両親と一緒でした。場所?華北の石家荘という大きな町でした。冬になると家の近くの道端につぼ焼き屋が現われました。

 針金の先に、いもを丸ごとひっかけます。それをつぼの内側にたくさん吊して焼くのです。そのおいしかったこと。毎日買ってたべました。それがいも好きになったきっかけでした」

 大野史朗の『農業事物起源集成』(丸山舎)によると、つぼ焼きの元祖は中国の東北地区。それが昭和4年に上海からわが国の関西地方に入った。東京へは翌年、京都から入り激増、その数はたちまち500軒以上にもなったとある。

 中国の都会の人たちは焼き芋が大好きだ。

 だから冬になるといまでも道端に焼き芋屋がたくさん現われる。ただ「つぼ焼き」は見当たらない。ドラム缶や土製のかまどを使って焼くものばかりだ。つぼ焼きはいつの間にか消えてしまったようだ。

 それでも今日は本場のむかし話を聞かせてもらうことができて、ありがたかった。

 

 

  HOME 








片手にめざし、片手にひがしやま(平16年2月13日)

 60代の女の人が当館の売店にあった丸干しの干しいもを見て、「あっ、ひがしやまがある」と大きな声を出した。四国西海岸南部に宿毛湾がある。その沿岸地方は段々畑で有名なところで、昭和20年代までの作物は麦とサツマイモだった。

 そこでは丸干しの干しいものことを「ひがしやま」と言う。なんでそう呼ぶのかを知りたくて、前々から調べているのだが、まったくわからない。その女の人にも聞いてみたが、やはりわからないという。そのかわり、それにまつわるこんな話をしてくれた。

 「わたしは愛媛県南宇和郡西海町の出身。中学卒業と同時に東京に出て働いた。その後結婚し、いまは川越に住んでいる。

 『ひがしやま』は、どのいもででも作れるわけではない。それ用のいもでないとだめ。その皮の色は白。蒸すとべちゃっとなる、とってもあまいいもだった。そのいもを蒸し、皮をむいて丸ごと干しただけのものが『ひがしやま』だった。

 うちは漁師だった。いまはだめだが子供の頃は、イワシが取れて取れてどうしようもないほど取れた。それでいりこやめざしを作って商人に売った。その頃の食事はサツマイモとイワシの日が多かった。

 片手に蒸しいもを持ち、片手にめざしの焼いたのを持って交互に口に入れた。それがうまかった。時々、蒸しいもの代わりにひがしやまを持たせてもらえることがあった。その飛び切りうまかったこと。いまでもあれよりうまいものはないと思ってる。

 親はありがたい。東京に出たわたしに、時期になるとひがしやまとめざしを送ってくれた。それがやがてめざしだけになった。だれもがひがしやまを作らなくなったからだと聞いた」

 さいきん宿毛湾地方でひがしやまの復活運動が起っている。そのことで当館へ来た人もいる。そんな話をその人にすると、こう言った。「またひがしやまを食べれるようになるのかな。嬉しいな」

 

 

 

  HOME 








ぬかのパン(平16年2月25日)

 当館の売店のいも粉を見ていた男の人がつぶやいた。「こういうものは見たくないな、戦後の食料難を思いだしちゃうよ」。 わたしが 「そのだんごを食べさせられたのですね」 というと、 「違う。それはごちそうだった。わが家では毎日、ぬかのパンを食べていた」 となり、こう続けてくれた。

「わが家は東京の下町の本所にあった。昭和19年にそこの国民学校に人ったが、すぐ千葉県下に疎開した。それで命だけは助かった。その後の空襲で家を焼かれた。

 終戦の翌年、焼け跡にもどりバラックを建てた。その頃の東京の食料事情はひどすぎた。とにかく食べるものがなかった。例外は米のぬかだけだった。それはどういうわけかたくさんあって安く買えた。だからうちではそのパンを焼いた。

 ぬかは水だけではまとまらない。小麦粉をちょっと入れればいいのだが、それがなかった。仕方がない、ぬかを軽く握って手製のパン焼き器に入れた。そのパンは手に取ろうとするとぐずぐずに崩れた。毎日そんなものしかなくて、よく体がもったものだと思うよ」

 その頃、でん粉のしぼり粕をフライパンで焼いて食べた話は聞いている。だが、ぬかのパンとは今日が初めてだった。

 

 

  HOME 








島根県の大根島の「かわごえ」(平16年3月7日)

 島根県東部の八束郡八束町に大根島がある。中海のまん中に浮かんでいる島だ。さいきんはボタンの花の名所になっているが、戦前は農家の自家用のサツマイモ畑の多いところだったという。

 今日は同島出身で、いまは兵庫県に住んでいるという夫婦がきた。70代の人で、こんな思いがけない話をしてくれた。

 「わたしたちは育ち盛りを大根島で過しました。サツマイモ畑の多いところでしたが、品種は1種類だけ。『かわごえ』しかありませんでした。その皮の色は赤。蒸しいもの身の色はまっ白。ねっとりのあまいいもで、冷めてもおいしいいもでした。

 本当は「太白」と言うのでしょうが、島では「かわごえ、川越」と言っていました。むかし川越からその種いもか苗がきたからなのでしょうね。

 その後、島を椎れ都会で暮しました。そしてトシを取りました。そうなるとむかし子供の頃食べたものが恋しくなるものです。それで大根島に『かわごえ』を求めに行ってがっかりしました。もうそれを作っている人は1人もいなかったのです。それで川越にわざわざきたというわけです」

 川越地方には太白を作っている農家が何軒かある。そこを紹介してあげたが、川越の太白が出雲の中海地方まで行っていたとは知らなかった。

 

 

 

  HOME