その50


沖縄100号の里帰りと台風(平成17年7月25日)

 沖縄の八重山地方に「八重山毎日新聞」がある。そこの東京通信員、有田静人さんとは十年以上の付き合いになる。今年の五月下旬のこと、その有田さんからこんな内容の電話をもらった。

 川越のいも資料館ではいまでも沖縄100号を作ってくれている。展示もしてくれているということを記事にしたら、西表島の読者の大谷用次という人から、自分もそれを作りたい。ついては川越の種いもを入手できるように取り計らってもらいたいと頼まれた。

 わけを聞いてみると大谷さんは相当の高齢者だが、耳もいいし気力も充実している。出身地は竹富島で、若い頃そこのサツマイモの多収穫競技に参加した。その時沖縄100号を使って自分でもびっくりしたほどたくさんのいもを取り、いい賞をもらったのだという。それで新聞を見てそのいもが懐かしくなり、もう一度作ってみたいとなった。といってもあれはむかしのいもだ。いま島にあるのは新品種ばかり。調べてみてそれがわかったので、あとは川越に頼るしかなくなった。館長、そういうことですから一つ、よろしくお願いします。

 沖縄100号は沖縄県農事試験場の松永高元氏により昭和9年(1934)に育成された。最初は沖縄県民用の食用いもとして普及したが、やがて抜群の多収いもであることがわかり全国に普及した。太平洋戦争による食料難時代に一番活躍したいもなので、当館ではその維持に力を入れている。

 ところが今年に限って冬の貯蔵に失敗してしまい、そのほとんどを腐らせてしまった。それで有田さんに頼まれて困った。西表島に送れるいもは1個しかなかったからだ。仕方がないのでわけを書いてそれを送ると、大谷さんからさっそく電話があった。「種いもは1個で十分です。時間をかけてこのいもからできるだけたくさんの苗を取ります。そして島の仲間にも分けてやります」と。

 それにしても驚いたのは大谷さんが92歳だと言ったことだった。沖縄は長寿で有名だがそういう人との付き合いはなかった。それが沖縄100号のおかげで縁ができて嬉しかった。

 それから2か月後の今日、大谷さんからの大きな段ボール箱が届いた。中に完熟のパイナップルが10個も入っていた。その香りと味のいいことに驚いた。こんなにうまいパインは初めてだった。それにしてもいも1個でいいものをたくさんもらってしまい恐縮した。すぐ御礼の電話を入れると大谷さんもそれはよかったと喜び、自分からこんな身の上話をしてくれた。

 「自分は竹富島の生まれです。そこの学校を出てすぐ台湾に渡りました。そこで働いてから竹富にもどりました。いもの多収穫競技に参加したのはその時のことです。

 それから南洋のテニヤン島に渡り、そこの製糖工場で働きました。それがアメリカとの戦争になってだめになりました。テニヤンは日本軍が玉砕したサイパン鳥の隣りの島ですからね。ここの日本軍も玉砕しました。自分も海に飛ぴ込んで死のうとしたところを、寸前にアメリカ兵に助けられました。

 戦後、竹富鳥にもどったものの畑も仕事もない。それで西表島に開拓民として入りました。琉球政府がそこへの入植者を募集していたからです。西表はマラリアのすごいところで、だれもがひどい目にあいました。それでも密林を切り開いて畑を作り、なんとか暮らせるようにしたのです。そう、ここへきてもう53年になります。

 沖縄100号のその後ですか?大事なことが後になってしまいましたね。種いも1個から90本もの苗が取れました。それを畑に植えて喜んでいたら台風がきた。7月18日に台風5号に直撃されたのです。

 いもは畑に植えた苗が育ち、つるや葉で地面を覆い尽くしてしまえば強いものです。どんなに強い台風がきても吹き飛ばされることはありません。こわいのはそうなる前で地面がまだよく見えている時です。そんな時に台風がくると、いもは根本から風で吹きちぎられてしまいます。台風5号がきたときのうちの沖縄100号は育ち始めたばかりのところで危ない状態でした。そこでその一部に上から網をかけ、その周囲を大きな石で押さえました。できればいも畑ぜんぶを覆いたかったのですが、うちにはそんなにたくさんの網はありません。

 台風のあとのいも畑はひどいものでした。残ったのは網をかけたところの30本だけ。あとの60本はあとかたもなく、どこかへ吹き飛ばされていました。でも3分の1は助かったのでそれを大事に育てます」

 沖縄は亜熱帯にあるので、サツマイモの苗は年中いつでも植えられる。でも台風シーズンのことを考えると、それにもやはり適期があることがよくわかった。





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「江ノ電」が「いも電」になった(平成17年12月9日)

 今年、2005年は太平洋戦争が終って60年ということで、マスコミも戦争による食料難時代の話の報道に熱心だった。今夜のNHK第一テレビ「特報首都圏いまなぜ昭和ブーム」の中の「江ノ電」もその一つだった。

 「江ノ電」は江ノ島電鉄の略。藤沢と鎌倉を江の島経由で結ぶチンチン電車として親しまれてきた。テレビに出たのは食料難時代にその運転手だった人で、それによると当時の「江ノ電」は「いも電」と呼ばれていたという。

 同線の沿線の多くは砂地で、もともとサツマイモ畑が多かった。それで食料増産が叫ばれるようになると、いも畑がさらに増えた。束京や横浜などの都会で食料不足に悩まされていた人たちが、身近なところにあるそのいも畑を見逃すはずがない。秋になると大きなリュックサックを持ってたくさんの人が、いもの買い出しにどっと押し寄せた。それで江ノ電は超満員になってしまい、「いも電」の名がでたのだという。

 わたしがこの話に興味を持ったのは、当時同じような理由から川越地方にも「いも電車」と呼ばれていたものがあったからである。池袋から川越を経て小川町に至る東武東上線がそれだった。

 

 

 

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