その53


男のいも好き(平成18年7月12日)

 女性のサツマイモ好きは有名だが、男性のそれはあまり聞かない。ところが今日はそれが大好きだという人がやってきた。毎日サツマイモを欠かさずたべているそうで、こんな話をしてくれた。

 「自分は昭和6年生まれ。いまは埼玉の朝霞市に住んでいるが生まれは愛媛の宇和町(西予市)。四国の字和海沿岸はけわしいリアス式の海岸で平地がない。それで住民は海に迫る山々の急傾斜地に何百年もかけて段々畑を築いてきた。それはぜんぶ畑で水田はない。冬作が麦で夏作はサツマイモである。

 自分が生まれ青ったところは、海岸から山の峠を越えて入る内陸盆地なので畑だけでなく水田もある。だが農家の子だった自分はコメのめしをたべた記憶がない。親の話だと当時は戦時下の非常時で、米の供出割り当てが重かった。取れた米をぜんぶ供出しても割り当てられた量に及ばないため、親類などから借りて納めた家が何軒もあったという。

 それとくらべるとサツマイモの供出割り当ては軽かったので、こっちは手元に残った。だから米は作っても、米の取れない段々畑の人たちと同じでいもだけの毎日だった。生いもがある秋から翌春までは、いもを蒸したりゆでたりしてごはんの代りにした。それがなくなるとカンコロになった。

 生いもを薄くスライスして天日で干したものがそれで、冬の間に作っておく。それを砕いて炊いたものがカンコロめしである。

 そんな暮らしだったものだから、自分たちの仲問はいも嫌いになった。とくに男はそうで、いもは見るのもいやだという者が多い。ところが自分だけはどういうわけかいもが好きでしょうがない。世の中にはそんな男もいるということを知ってもらいたくて、いも資料館にきたのです」





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不思議ないもファン(平成18年8月10日)

 東京から小学5年の娘ときた40代の母親がこんな話をしてくれた。

 「わたしも娘もサツマイモが大好きで毎日たべています。たべ方ですか?いろいろだけど一番好きなのは焼き芋かな。 うちには不思議な人がいます。昭和6年生まれのわたしの実父です。

大平洋戦争中は旧制の中学生。その頃サツマイモをいやというほどたべさせられたので、あれはだめ、見るのもいやだと言っています。

 そのくせスイートポテトやいもようかんなら大好き。あれば毎日でもたべます。なにしろお誕牛日はケーキではなくて、高級スイートポテトの「松蔵ポテト」で祝ってもらっているような人ですから。

 いもの形がそのままの蒸しいもや焼き芋はだめだけれど、それがわからない加工品ならいいというのですからわからない人です。うちには不思議な人がいるねえ〜といつも言っています」

 戦争による食糧難時代に一生分のサツマイモをたべさせられたから、あれはもうたくさんとう男の人は多い。だがその中にいもの形が見えなければ喜んでたべるという人がいたとは知らなかった。





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いもの買い出し(平成18年8月11日)

 東京から昭和8年生まれという女の人がさた。資料展示室にある「沖縄100号」を見ながらこんな話をしてくれた。

 「わたしの家は東京の小石川にあった。小学校の5年、6年は学童疎開で山形にいた。終戦で家にもどったら元の家がなかった。空襲で焼けちやったの。それでもわが家からは死人がでなかったのでいいほうだつた。父が焼け跡に白分て建てた一部屋だけのちっちゃな家での暮らしが始まった。家族が一緒になれたのはよかったが、たべものが少なくて困った。

 うちの周りにも同じようなバラックが4〜5件あった。そこでもたべものが足りなくて、よくおばさんたちが一緒にいもの買い出しにでかけていた。母も一緒に行きたがったが、ちいさい子供がいてむりだった。それで子供の中で一番年長のわたしが連れていってもらうことになった。

 池袋から東上線で用越方面の村によくでかけた。おばさんたちがねらったのは門構えが立派で土蔵もある大きな家ばかりだった。ちいさい家は畑も狭い。供出後に残るいもも少ないのでぜんぶ自家用になってしまう。そういう家にいもを売ってと頼んでも売れるだけのいもがないと言っていた。

 買い出しに行く家はどういうわけか毎回違っていた。知らない家の庭に入っていくのだから、わたしは恥かしくてしょうがない。いつもおばさんたちの後にかくれるようにして入った。それでも農家の人にすぐ気付かれてしまい、がわいそうに、こんなにちっちやな子供が買い出しにきてとよく言われた。そしてわたしのリュックサックに、いの一番にいもをぎゅうぎゅう詰めてくれることが多かった。

 あれから60年もたつのね。この頃はよく、あの時親切にしてくれた人たちはどうしているのかなと思うの。でも道路も家も景色もすっかり変ってしまっている。探したくてもその家を探せないの。それでこの資料館にきたというわけ。そうしたらあの頃お世語になったオキナワいもがあった。きてよかったわ」

 

 

 

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食料難の頃の写真(平成18年8月17日)

 埼玉県の本庄市からきた男の人がこんな話をしてくれた。

 「終戦の時、自分は12歳で妹は4歳だった。きょうだいは2人だけだったので仲がよかった。先日家の中を片付けていたら、終戦の翌年頃の写真がでてきた。モノクロの名刺版でセピア色に変色していた。

 親類の人が撮ってくれたもので、自分と妹が並んで写っている。それを見て思わず『あっ、妹がいもを持っている』と言ってしまった。うちは町の中心部の非農家だったから、その頃の食糧事情は最悪だった。

いつも腹ペコでしょうがないので、水をガブガブ飲んでいた。一握りの米にサツマイモを入れたおかゆはいいほうで、たいていは蒸しいもだけの食事だった。そのいもも1人分は情けないほどわずかなものだった。

 そんな貧しい昼食時に突然写真を撮ってもらえることになり、あわてて外へでたらしい。その時妹は大事な自分のたべかけのいもを、とっさに持ってでたようだった。 あの頃にはいまの人たちに話しても信じてもらえないことがいろいろあったよ」

 

 

 

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