その56


白米病の江戸煩と焼き芋 (平成19年6月4日)

 江戸時代は米遣いの世で、経済は米中心で動いていた。それで米以外の商品はひとまとめにされ、「諸色(しょしき)」とされていた。

 米価は江戸時代前半は高値で推移した。
米が不足気味だったからである。それが中頃の享保期(1716〜36)から下落に転じた。享保の中頃の米価はその初年の半値になった。米の生産力が上がってきたのに、その大消費地である三都(京郡・大阪・江戸)の人口増がその頃から止まったままになってしまったからである。

 ところが諸色は米価下落に連動せず、逆に上昇に転じた。享保より前の元禄(1688〜1704)の頃から都市の人々の暮らしが派手になり諸色の需要が増えた。だが供給力は低いままのものが多く、それらの品不足状態が続いたからで、世は「米価安・諸色高」となった。

 それにつれて起った社会間題の一つに脚気(かっけ)の多発があった。それはビタミンB1の欠乏からくるもので、死亡率の高い病気だった。江戸と大坂での発生がとくに多く、前者では「江戸煩(えどやみ、えどわずらい)」として恐れられた。

 ビタミンB1は玄米にはあるが、白米にはほとんどない。最初は玄米をたべていた江戸の人たちがだんだんぜいたくになり、白米をたべるようになったのは元禄の頃からで、それとともに脚気がでやすくなった。その辺のところを土肥鑑高氏は『米の日本史」(雄山閣、2001)でこう説かれている。

 江戸で脚気が大流行したのは米価の下落がひどかった享保・宝暦期(1716〜64)と文化・文政期(1804〜30)だった。白米だけが安く、それ以外のたべものや食材は高いとなれば、白米の多食で食事をすませてしまう人が多くなる。それがその原因だったと(149〜151頁)。

 話はとぶが江戸に初めて焼き芋屋が現われたのは、白米食がとっくに当り前になっていた寛政の頃(1789〜1801)だった。焼き芋は江戸の人々に受けた。焼き芋屋はたちまちどの町内にも生まれ、繁盛した。そして江戸の冬のおやつといえば焼き芋となった。

 いままでなかったものがなぜそれほどまでのものになれたのか。あまくてうまい。諸色高の中の例外でそれだけは安く買い易かったということのほかに、わたしはもう1つ付け加えたい。それは当時はビタミンの知識などはなかったが、人々の体がそれに必要な、だが欠けているなにかが焼き芋にあることを感じ取っていたからではなかろうかということである。

 焼きいもにあるビタミンB1は、白米のめしのそれの四倍近くもある。そういうものを好んでたべればたべるほど、体調がよくなったはずだからである。

 





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大名の家族も食べていた焼き芋(平成19年6月14日)

 江戸の世情に詳しい三田村鳶魚氏によると、江戸にそば屋が多かった最大の埋由はそばが安かったからだという。その一杯は長い間16文だったから、だれもが気軽にたべられた。それで客が多く、店も繁盛したとある(『三田村鳶魚全集・第7巻』、中央公論社、昭和50年。137頁)。

 江戸の文人、寺門静軒が天保期(1830〜44)に出した『江戸繁盛記』に、「焼薯(やきいも)という章がある。本書は漢文で書かれていたので、のちに佐藤進一氏訳の同名の本(三崎書房、昭和37年)が出て読みやすくなった。それで当時の焼き芋の値段を見るとこうある。

 四文も買えば泣き叫ぶ子供をなだめられる。10文も買えばたべ盛りの書生の朝めしのかわりになる。まったく重宝な食物だと。

 またそれをたべているのは貧しい人たちだけではない。高貴な人たちも喜んでたべているともある。

 そばより安いものが貴人にとっても好物の一つだったたとはおもしろい。その事例がわかればもっとおもしろくなる。そう思ってて前々から探していたら、今日はなんと運のいい日なのだろう、川越市中央図書館で見せてもらった江後迪子の『隠居大名の江戸暮らし』(吉川弘文館、1999)にそれがあった。

 大分県白杵(うすき)市は白杵藩の城下町である。同藩は5万石余。藩主は代々稲葉氏だった。その江戸時代中期以降の「奥日記」が市立臼杵図書館にある。「奥」とは殿様とその家族の私的な暮らしの場で、そこでのさまざまなできごとを奥祐筆が書き留めていた。政務とは別の世界のことだけに、思いがけないことがよくある。

 その研究をされている江後氏が成果の一部を発表されたのが本書だった。それによると奥日記にもっとも多くでてくる人物は稲葉家11代の雍通(てるみち)公となる。23歳で藩主となり、文政3年(1820)、44歳で隠居した。同家の江戸屋敷は上屋敷、下屋敷の二つで前者に殿方とその奥方、子供が住んだ。殿様が隠居して大殿様になると下屋敷に移るのが稲葉家のしきたりだったので、雍通公も隠居後は下屋敷に移った。そして71歳で亡くなるまでそこに在り、余生を楽しんだ。

 その楽しみかたがほほえましい。寺や神社によくでかけただけでなく、祭礼や花火、相撲などがあると聞けばさっそくでかけている。時には他藩の大名行列の見物までしている。そしてその帰りに家族などへのちょっとしたみやげを買うことも楽しんでいた。江後氏はその中に焼き芋もあったとこう紹介されている。

 「さつまいものことを大分では今も唐(とう)いもという。この唐いもがおやつとして多出する。焼き芋だったと思われる」

  その焼き芋を「文政8年(1825)9月には大殿様が神田明神へ行ったときお子様ヘ、文政10年11月には奥女中への土産に買っている。大名家でも普段のこどものおやつに焼き芋を買っていた。その値段は弘化3年では一回に50〜100文ほどであった」(155頁)。

  隠居の身とはいえ、元大名が外出先でみやげの焼き芋を買っている。また大名屋敷でこどものおやつにと、それをよく買っていた。焼き芋は安いものだったが、だれにとってもおいしく、嬉しい。そして楽しいものだったようだ。

 





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