特別偏


嘉手納町の野國總管甘藷伝来400年祭(平17年12月10日)

 サツマイモの原産地はメキシコからぺルーにかけての中南米の熱帯地方とされている。そこでは今から5千年以上も前からそれを食料として生産し、利用していた。それがコロンブス以降、急速に世界各地に広まった。わが国にも中国南部の福建省経由で、まず沖縄本鳥中部の嘉手納町に入った。1605年のことで、2005年はそれから400年になる。一つの節目に当たることから、全国のサツマイモと関係の深いところでさまざまな記念行事がおこなわれた。なかでもわが国のサツマイモの発祥地である嘉手納町は総力をあげてそれに当たった。その力の入れようは役場に甘藷伝来400年祭課」という「課」を特設したことからもわかろう。

 ただ困ったことに同町には「米軍基地」が重くのしかかっている。町の総面積の83%もが、極東最大の嘉手納飛行場を中心とする米軍基地に取られている。1万4千人の町民は残されたわずかな土地で、ひしめきあいながら暮らさざるをえない。その頭上を米軍機が超低空で飛び回るのだから、たまったものではない。

 それにもかかわらずここの人たちは力を合わせ、前向きに強く生きようとしている。その訳の一つは同町が胸を張り、全国に誇れるものを持っているからであろう。それは当地こそ、わが国の多くの人たちの命を救ってきただけでなく、今も健康食の一つとして大事にされているサツマイモの発祥地であるということだ。本稿ではその伝来のいきさつと、それが日本の人々の暮らしに与えた影響を改めてふり返ってみることにしたい。

 沖縄にサツマイモが伝来したころ、そこは琉球王国であった。同国は早くから中国への朝貢国で、そのための進貢船を出していた。中国の皇帝への使節団と貢物を運ぶためのもので、那覇から福建省の福州に入った。回数は初期は1年1回だったが、やがて2年に1回になった。

 使節団は福州から皇帝のいる北京まで陸路で向かい、陸路でもどった。それは片道だけでも2ヶ月もかかる長い旅だった。進貢船の乗組員はそれを福州で待ったので福州滞在が長くなり、同地の諸事情に明るくなった。それがサツマイモ導入のきっかけになった。

 福建省は山がちで耕地が少ない。その耕地も地力が低く作物のできが悪い。それで飢饉が多く暮らしにくいことから、海外に新天地を求めて流出する華僑の多いところだった。そこにフィリピンのルソン島のサツマイモが入ったのは、1594年のことだった。

 サツマイモは熱帯原産だけに寒さにだけは弱い。そのかわりに暖かいところならどこでもよく育ち、よくできる強い作物だ。福建に入ったそれはその通りのものだったので喜ばれ、どんどん広まった。

 福州滞在申の進貢船の乗組員の中にそれに気がついた人がいた。それが野國總管だった。

 野國總管の名は有名だが実名ではない。「野國」とは今は嘉手納町の一部になっている旧野國村出身の人ということであり、「總管」とは進貢船の事務長という職名である。この人は農家の出ながら中国の優れた文化にあこがれ、そこへの渡航を志した。そのために必要な中国語はむろんのこと、その他の諸学も修め進貢船の總管にまでなった努力家だったが、それだけではなかった。

 沖縄の人の多くは沖縄本島に住んでいる。そこは水田の少ないところで、耕地の大部分は畑である。その土がやせているだけではない。そこを干ばつと台風がかわるがわる襲うので飢饉が続発した。

 気持ちが優しく温かい野國總管はそれを憂い、常々なんとかならないものかと思っていた。だからこそ福州地方にも入っていたサツマイモに気が付き、効用と栽培法を調べ種いもを持ち帰った。それが1605年のことだった。

 總管のこの非凡なところを400年祭記念誌編纂部会長の伊波勝雄先生はこう強調されている。

 「福建にサツマイモが入ってからでも、そこに進貢船で渡った人はいくらでもいた。だがそこで見たはずのサツマイモを野國總管のように持ち帰った人は1人もいなかった」と。

 そのサツマイモは好運に恵まれた。總管が野國村で試作を始めたことを知った儀間真常がそれを見にきたからだ。真常はのちに王府の田地奉行にまでなった農政の専門家だった。その人がいも作りを習い、種いもも分けてもらっただけではない。自ら試作を繰り返しよりよい栽培法を確立した。それから普及活動に入ったので一気に普及した。1605年の伝来からわずか15年で、サツマイモ畑は沖縄本島の隅々にまで広がったという。

 サツマイモは最初は飢饉に備えて作られたがあまくてうまい。腹持ちがよく主食の代わりにもなったので、すぐ農家のふだんの日の食料として積極的に作られるようになった。おかげで食料事情がよくなり、人日も増えた。

 王府の最高行政官である三司官の一人、蔡温の『独物語』(1705)に、琉球王国の人口は前代までは7〜8万人だった。それが今では20万人にもなっているとある。

 沖縄に定着したサツマイモは九州に入り、そこから日本列島を北上した。そして江戸時代の中頃からは、今でも経済的栽培の北限になっている関東でも作れるようになった。

 その栽培が特に盛んになったのは九州、四国、中国の西日本で、そこでも人口が増えた。サツマイモにより食料事情が好転し、それまで多かった「間引き」の悪習が減ったためだった。

 サツマイモの伝来がいかに大きな意味を持っていたのかは、その導入と普及に尽くした先覚者たちがやがて全国各地で神や仏として祭られるようになったことからもわかる。そのようなことは他の作物ではあまり見られない。

 沖縄では早くから野國總管に感謝し、功績をたたえる動きが起こった。そしてそれは今日に続いている。嘉手納町では50年前の1955年に甘藷伝来350年を記念して「野國總管宮」を造ったし、今年の400年祭では「野國いも宜言」をおこなった。その名を全国に発信するために、これからはサツマイモを「野國いも」の愛称で呼ぶことにしようというもので、町内の目立つところにその宜言碑が建てられた。

 それにしても残念なのは旧野國村がそっくり米軍基地の中にあり、近づくこともできないのと、狭小な町内にはいもを作れる畑がないことだ。自分のところで取れたいもを野國總管の大祭に奉納できないことぐらい辛いことはない。そこでなんとしてでもいもを作ろうとなり、プランターでそれを作った。

 このような実情から同町はいも畑がなくてもできる記念事業を考えざるをえなかった。その目玉の一つが国の内外のサツマイモ関係文献の収集と公開だった。

 文献収集は5年前から精力的に進められてきたが、400年祭後も継続する。それと同時に今後はその文献のデジタル化による公開をしていきたいという。

 わたしはサツマイモ関係者の一人としてこの400年祭の行事に2回も招いていただいた。8月のフォーラムと9月末の記念式典がそれで、それを通して嘉手納町の多くの人たちと知り合いになった。そこで感動したことは、ここの人たちが逆境にもめげず、知恵と力を出し合い、常によりよい明日のためにがんばっているということだった。






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