太平洋戦争前のわが国のサツマイモの一つに「太白」(たいはく)があった。粘質で蒸しいもに向いていた。皮の色は赤。肉の色は白。蒸すと文字通りまっ白になった。それを「牛乳のような白」と表現する人もいた。あまいいもで冷めてもうまかったので、全国各地で広く作られた。
ただ収量が少なかったので戦争で激減した。そのいきさつを伺えるものが、川越の隣りの狭山市の『市史通史編2』(平成7年)にこうある。昭和18年度の旧入間川町の甘藷出荷責任数量割当は一反当り収穫量を470貫としておこなわれた。

当時の同町の「金時」(紅赤)の収量は200貫。「太白」でも300貫だったので農家は驚いた。在来種ではとても責任を果せないとなり、あわてて国が奨励する多収いもの「沖縄100号」や「茨城1号」に切りかえた。それなら反当500貫以上を楽に取れるとされていたからだと。
戦争が終って世の中が落ちついてきても太白の復活はなかった。戦後の食用いもの主流は「高系14号」と「ベニアズマ」になった。両者とも皮の色は赤。肉色は黄色。ホクホクであまくてうまい。しかも作りやすく収量も多いからだ。そんな中で太白は忘れられ、いつの間にか「幻のいも」になってしまった。

もっとも例外はある。ごく少数だがこのような変化に逆い、がんこに太白を作り統けている人たちがいた。その一人に秩父市阿保地区の飯島久さんがいる。わたしの「いも友達」の一人で、十数年も前からのお付き合いになる。その飯鳥さんを毎日新聞の津武(つぶ)欣也記者が知って取材し、平成17年11月1日の同紙全国版で大きく報じた。

「もう一度食べたい。郷愁そそるいも、太白を。それを作り続けている人が埼玉県の秩父にいる」と。

太白を懐しがる人の年齢は70以上になろう。その人たちが全国から飯鳥さん宅に電話を入れた。「少しでもいいから太白を分けて」と。驚いたのは飯島さんだった。そんな電話が朝から夜までひっきりなしに何日もかかってきたのだから。それで「困った、困った」となった。
太白畑は一反ほどしかないのだから突然の注文に対応できるはずがない。その窮状を知って周囲の人たちが立ち上った。「なにも困ることはなかろう。大白を欲しいという人がそんなにいるのなら、作り手と畑を増やせばいいではないか」となり、一気に「ちちぶ太白サツマイモ生産組合」を作ることになった。

今日はその設立総会ということで、わたしも招かれた。会場は秩父市公設地方卸売市場の会議室。来賓は栗原稔秩父市長、星裕治埼玉県秩父農林振興センター所長、中嶋政晴ちちぶ農業協同組合長、そしてこの会発会のきっかけを作った毎日新聞津武欣也記者など。この豪華な顔触れからも地元の人たちの太白再興へのなみなみならぬ決意を感じとることができよう。
会場には今年から太白を作るという人が12人もいた。飯島さんのことが新聞に出て2ヶ月ほどの間にこれだけの人が集ったのだから、きっとうまくいくことだろう。
その人たちによって会長に選ばれた飯島さんのあいさつもよかった。
「自分は七十八歳。ふつうなら毎日、日向ぼっこをしているトシです。大白作りだって自慢できるようなものではありません。おやじに教わった通りのやり方を、ただやってきただけのことです。だから若い人たちから見れば理解できないことがたくさんあることでしょう。
でもこれからは新しい技術を取り入れながら、よりよいものを作りたいと思っていますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします」と。

今日の飯島さんはいつもよりはるかに若々しく見えた。それは思いもよらなかったことから突然大役を引き受けざるをえなくなった心の張りからきているのであろう。
そのあとの来賓の祝辞も心温まるものばかりだった。その一つ、津武記者の励ましの言葉はこういうものだった。
「いまのわが国ではファーストフードがはやっています。その反対側にあるのがスローフード。太白はかってはだれもが好んでたべていたものです。それが時代に合わないもの、割に合わないものと勝手に思い込まれるようになり、置き去りにされていたのです。ところが最近のスローフードの掛け声の中で見直され、割に合うものになってきたのです。
だからみんなで力を合わせてまた作りましょう。それもよその人たちに売るためにではなく、まずは地元、秩父の人たちにたべてもらうために。それが結局は世の中の最先端を行くことになるのですから」

津武記者は全国を回って、優れたものを持ちながらも消えかかっている作物を見つけてはその再生を訴えてきたという。その目に止まった飯島さんの太白はまことにラッキーだったということになろう。