東京から70過ぎの男の人が1人で来た。資料展示室にあった「沖縄100号」といういもを見て戦争中のことを思い出してしまったと、こんな話をしてくれた。

「戦時中は東京の旧制の中学生でした。ニ年の時、勤労動員で都下の東久留米の農家に行きました。主人が兵隊に取られ、働き手がいなくなって困っている農家に泊り込みで行って、農作業を手伝うのです。それも秋の1か月間という長いものでした。
われわれは1軒の農家に1人ずつ割り振られました。ただ大きな農家には2人ずつでした。そういう家の仕事は特にきついので、だれも行きたがりません。わたしはそこに行くことになつてしまったので、仲間から『お前は運が悪いな』と同情されました。
わたしが行った家の働き手はおじいさんとおばあさん、それに乳飲子を抱えた嫁さんで、仕事はいも掘りでした。毎朝、早く起こされ、朝飯もそこそこに畑に出ました。
まず鎌でいもづるを刈ります。腰を曲げて刈るので、たちまち腰が痛くなります。いもを掘るのはもっときつい。慣れない鍬を使って掘るんですから。タ方になっても仕事は終らない。掘ったいもを『いも穴』のある所まで運び、その日のうちにその中へ入れなければならなかったからです。
一日中、仕事、仕事でいつも腰が痛くて困りました。
その家で作っていたサツマイモのほとんどは『沖縄100号』でした。ゴツゴツの巨大ないもでした。このいもは量は取れましたが味の方はだめ。それで農家は国への供出用として作っていて、白家用には別のいもを作っていたようです。量は取れないが味のいい『きんとき』がそれで、わたしが行った家てもそうでした。
そこのおやつはいつも蒸したきんときでした。口に人れると、ふわーっととろけます。あまいし、香りもいい。あの時のあのうまかった味は一生、忘れられません。
今思えば、おやつのきんときを食べたくてがんばっていたようなものでした」