疫不知 (えきしらず)

登録番号 農林認定
種苗法 
北海道優良品種 1914-1923
異名 病知らず、無病薯、癖つかず、
高枕、ヒヾ薯、秋薯、豚薯、
竹内薯、惣次郎薯  
地方番号
系統名  
系統番号
組合せ 不明 (フランス?の真正種子由来)

塊茎
北海道農事試験場の試作の結果8種に分離した「疫不知」
最右列の上から1番目と2番目が「北農第2号
北海道農事試験場.“耐病性馬鈴薯北農第二号成績概要”.(1921)
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(1)来歴

 明治36年(1903)頃、早稲田農園主池田次郎吉が耐疫病性品種を育成しようと海外(フランス?)より真正種子を取り寄せ、釧路町字西幣舞の種子商角田定蔵に売却し、これを釧路国鳥取村農民竹内惣次郎並びに庶路村農民宮崎平八に売却して3〜6年間栽培育成した後、隣人に分けたのが始まりで、塊茎、花部の性質や疫病抵抗性が異なるものが混ざった混系です。疫病に強いことから「病知らず」、「無病薯」、「癖つかず」、「高枕」などと呼ばれ、食味が良くないことから「豚薯」、また、竹内惣次郎氏が増殖して希望者に頒布したことから「竹内薯」、「惣次郎薯」とも呼ばれていました。農事試験場がこれらを集めて「疫不知」と命名し試験を行い、大正3年(1914)に優良品種に決定しました。
 「疫不知」は、実生に由来するいくつかの系統の混合物であることがわかったため、さらに系統分離を行って、品質、いもの形、収量性に優れたものを選出して「北農第2号」が育成されました。「疫不知」は「北農第2号」が育成されたため、大正13年(1924)に奨励品種から廃止されましたが、第二次世界大戦後まで作付されていたようです。

北海道農事試験場.“耐病性馬鈴薯北農第二号成績概要”.(1921) p.1-2
 「疫不知」の名称とその由来
 前期の耐病性品種は、釧路地方にて初めて栽培せられ、其性強健にして、疫病に対する抵抗力強きが故に、「病知らず」、「無病薯」、「クセツカズ」など称し、又安んじて栽培し得るが故に「高枕」とも称し、又熟期の晩熟なるが故に「秋薯」と称し、品質甚だ不良なるが故に「豚薯」などと称し来りしが、本場にて之を栽培し、「疫不知」と称するに及び、今や「疫不知」なる名称一般に通ずるに至れり。本種は、明治三十五六年の交、早稲田農園主池田次郎吉の、同地方に於ける馬鈴薯の疫病猛烈にして、被害甚大なるを聞き、海外産馬鈴薯中或は耐害性のものあらんかとの希望の下に、仏国(?)より馬鈴薯種子二三十袋(一袋に二百粒内外入れるもの)を輸入し、釧路町字西幣舞の種子小売商角田定蔵をして、数名の農家に売却試作せしめしを以て濫觴とす。
 抑も「疫不知の」伝統に二あり、一は釧路国鳥取村竹内惣次郎に依りて、他は釧路国庶路村宇崎平八に依りて伝へらる。共に前記角田定蔵より種子を得て栽培せるものなり。右鳥取、庶路両系の外、此種子に依り試作せしものありしも、実生薯の栽培其煩に耐えず、之を中途にして放棄せしものゝ如し。
 竹内氏は前記馬鈴薯種子を、明治三十六年(或は明治三十七年ともいふ)播種し、其秋、雀卵大の薯塊五六合を収穫せり。薯塊中には色沢の白きもの、紅なるもの、紫なるものなどを混合せるも、其内、白色なるもののみを選びて翌年播下し、六七升を収め、三年目に至り、薯塊大に収量も多く、反当三十俵位の収穫を挙げしといふ。かくて試作後、五六年目頃に至り、同村内の希望者に頒与し、栽培者漸次多きに至れり。是れ「疫不知」の一名「竹内薯」、或は「惣次郎薯」の名ある所以なり。
 一方、宇崎平八は、竹内惣次郎と同様、同年播種して同様の結果を得、二年目には、一株四十個内外の薯塊を附するものなどありて、四俵を収め、内一俵を同村戸長役場に売却し、同役場は之を農家に配付せり。同氏は爾後三年間、其栽培を継続し、其間希望者に売却せしも、晩熟種なるの故を以て、其作付を廃したりといふ。
 かくて「疫不知」は漸次付近の農家に伝播するに至り、次て釧路以外の地方にも伝へらるるに至りしも、味の甚だ不良なるの故を以て、其栽培を継続するもの少なく、単に釧路地方の如く濃霧の襲来多く、随て馬鈴薯疫病の烈しき地方にのみ、栽培せらるゝこと稍多きに至れり。


文献及び関連Web

北海道農事試験場.“耐病性馬鈴薯北農第二号成績概要”.(1921)

伊藤誠哉.“疫病に對する免疫性馬鈴薯に就て”.日本植物病理学会報.1(1):5-9 (1918) (CiNii)





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