屯田薯

(別名:屯田,赤芋,紫芋)



北海道農事試験場報告 1 (1903.3) より

(1)来歴

 明治以前から北海道で栽培されていた紫皮の在来種である。『馬鈴薯二関スル調査』(1919)によれば、北海道の渡島地方から胆振の有珠を経て札幌方面に伝わったようであり、北海道最古のジャガイモ栽培記録である宝永3年(1706)に松兵衛が瀬棚地方で栽培した品種の可能性がある。「根室(根室紫)」とともに明治の中頃まで広く作られていたが、1900〜1902年(明治33〜35)にかけてジャガイモ疫病が大発生し、収穫がほとんど見込めなくなったため、栽培は激減した。実物は残っておらず、DNAによる品種の同定は困難である。

(2)特性

 いもは長形で淡紫皮で目が深い。晩生で、肥沃なところではよくできるが、肥沃でないところでは生産は少ない。疫病にも非常に弱い。
 目が深く、いもに粘力があるので、品質はあまり良くないとされていたが、この粘力を利用して農家はよく餅について食べた。



文献

北海道農事試験場.明治三十五年農事試験成績 馬鈴薯.北海道農事試験場報告 1:56-67 (1903)

北海道農事試験場.馬鈴薯 《爪哇芋》.北海道農事試験場彙報 6:1-30 (1908)

窪田森太カ.馬鈴薯の種類.北海道農会報 3(26):2-6 (1903)
p.6
屯田薯、紡錘状を成し表皮粗剛にして紫色なり肉質淡黄色にして澱粉量多の味美なり芽の数多く且つ深きは其次点(欠点?)なり現今北海道にては一般に食卓用に供せらるる二十七種中最も晩熟に属す

爪哇薯収穫量及澱粉量.北海道農会報 3(35):109-113 (1903)

高橋正男.馬鈴薯二関スル調査.北海道庁内務部(1919)
p.1
本道ニ於ケル馬鈴薯栽培ノ起源ハ詳ラカナラサムルモ今ヨリ二百余年前即チ宝永三年五月(東山天皇)松兵衛ト云フ者現今ノ瀬棚村漁場内ニ始メテ畑ヲ開キ、蘿蔔、馬鈴薯ヲ播種セシコト記録ニ明カナルヲ以テ既ニ宝永年間ニハ本道ニ於テ馬鈴薯栽培ヲ為セシ事確ナリ
p.3
而シテ当時相当ニ栽培セラレタルモノニテ原産地ノ不明ナルモノヽ内俗ニ『赤芋』又ハ『紫芋』と称シ赤紫色ヲ帯ヘルモノアリ一ハ『屯田』ト称シ芽ノ深キモノ一ハ『根室』ト称シ目ノ浅キモノナリ、其ノ石狩国ニ来リタル由来ヲ尋ヌルニ前者ハ渡嶋地方ヨリ胆振有珠ニ入リ次テ札幌地方ニ来リタルモノ如ク後者ハ明治十二年札幌ニ於テ共進会開催ノ時根室ヨリ始メテ出品ニ係リシモノナリ、思フニ『屯田』ハ瀬棚地方ニ於テ昔日ヨリ栽培セシモノ『根室』ハ柏屋喜兵衛カ天保年間ニ於テ根室ニ播種セルモノナルガ如シ

山田勝伴.本道馬鈴薯栽培の沿革.北海道農会報 5(60):913-915 (1905)
p.915
以上述ぶる種類の内、「スノーフレーキ」、「アリーロース」及「屯田」、「根室」は従来最も多く栽培し来りしも、明治三十五年馬鈴薯疫病発生以来、晩熟性の「屯田」、「根室」の如きは結実せず、且つ収穫の見込みなきを以て年々其栽培は減少せられ、之に反し早熟性の「アリービーテー、オフ、ヘブロン」の如き大に歓迎せらる、而して「アリーロース」、「スノーフレーキ」等も亦、現今最も盛に栽培せられつゝあるものなり。

安孫子孝次氏胸像建設の会 編.北海道農業よもやま話.北農会.(1968)
p.114
私などは屯田兵の子供として育ちました関係から、馬鈴薯によって養われてきたと申してもよいのでして、いまでも思い出すのは薯餅のことです。薯餅というのは馬鈴薯でつくった餅のことですが、私の子供時代には「屯田薯」という品種がありまして、なかなか広くつくられておりました。この馬鈴薯は長形で、芽が深く、薄紫色をしておりまして、肥沃なところでは大変良くできたもので、私には七、八寸ぐらいもある長い馬鈴薯をナワでたばねて畑から持ち帰った記憶があります。この「屯田薯」は晩生でしたが、馬鈴薯疫病に非常に弱いのです。そして芽が深いことや粘力があるということなどで品質は余り良くない。ことに土地が肥沃でないと生産が少ないのです。そんなわけで、北海道に馬鈴薯疫病が増えて来るようになり、また地力が衰えて来たりしたものですから、だんだん他の優良品種が普及してきまして、この薯をつくるものが次第になくなり、とうの昔に絶滅してしまいましたが、当時この薯の粘力を利用して、農家はよく餅について食べたのです。この薯で餅をつくるには、皮をむいてゆでて水を切り、熱をさましてから臼に入れて餅 − ちょうど羽二重餅のようなつやつやしたりっぱな餅ができますが、これをちぎって砂糖醤油をつけて食べるとすこぶるうまい。当時はたまに砂糖醤油をつけることもありましたが、平生はただの醤油をつけて食べたのですけれども、それでもとてもうまく食べられました。ところが、この餅はそのままにしておくと薯にかえってしまう、だからつきたてを食べなければならないのです。

神奈川県農事試験場.爪哇薯ノ栽培.神奈川県農事試験場.(1908)
p.26 北海道及ビ東北地方ニ於ケル伝来ノ系統
既ニ述ベタルガ如ク我国ニ於ケル爪哇薯ハ其始メ蘭人ニ依リテ長崎地方ニ伝播シ夫レヨリ次第ニ北遷シタルモノナルガ如シト雖モ又一種函館ヨリ北海道ニ及ビ更ラニ転ジテ青森、福島地方ニ伝播セル形跡アリ即チ従来ノ者ハ淡紅色ヲ帯ブルカ又ハ白色種ナリシニ北海道ヨリ青森地方ニアリシ者ハ外皮暗
紫色肉質粗造黄色ニシテ淡白ノ味ヲ有シ彼ノ甲州薯ト称スルモノトハ全ク其性質異ナルガ如シ之レ露人ガ樺太占領後伝ヘタルモノナラン又一節ハ露西亜人ガ寛政年間ニ樺太ヨリ持来タラセル者ナリトノ説アレドモ何レモ明確ナル記録ノ存スルナク窺ヒ知ルニ由ナシ(又一説ニハ函館、江差地方ニハ其以前ヨリ伝ハリ居リシモノヽ如シトノ説アルモ明ラカナラズ)

北海道毎日新聞 第306号 1888年7月21日.五升芋の沿革 
○五升薯の沿革 後志国瀬棚地方に五升薯(馬鈴薯の方言)を播種耕耘するに至りし起原を聞くに宝永三年ニ月中江差九艘川町高田松兵衛なる者「ヒタルベシナイ」(今の瀬棚郡瀬棚村)へ移住の際五升薯(白の二種)の種子を齎し来り始めて海産干場に播種せしより漸々久遠。奥尻。太櫓等の各地に波及し大いに是を作るに至れり

関連Web

「北海道じゃがいも伝来300年について」 〜檜山支庁〜 (北海道檜山振興局 (2006年))




じゃがいも品種詳説 TOP