東京から昭和8年生まれという女の人がさた。資料展示室にある「沖縄100号」を見ながらこんな話をしてくれた。

「わたしの家は東京の小石川にあった。小学校の5年、6年は学童疎開で山形にいた。終戦で家にもどったら元の家がなかった。空襲で焼けちやったの。それでもわが家からは死人がでなかったのでいいほうだつた。父が焼け跡に白分て建てた一部屋だけのちっちゃな家での暮らしが始まった。家族が一緒になれたのはよかったが、たべものが少なくて困った。
うちの周りにも同じようなバラックが4~5件あった。そこでもたべものが足りなくて、よくおばさんたちが一緒にいもの買い出しにでかけていた。母も一緒に行きたがったが、ちいさい子供がいてむりだった。それで子供の中で一番年長のわたしが連れていってもらうことになった。
池袋から東上線で用越方面の村によくでかけた。おばさんたちがねらったのは門構えが立派で土蔵もある大きな家ばかりだった。ちいさい家は畑も狭い。供出後に残るいもも少ないのでぜんぶ自家用になってしまう。そういう家にいもを売ってと頼んでも売れるだけのいもがないと言っていた。
買い出しに行く家はどういうわけか毎回違っていた。知らない家の庭に入っていくのだから、わたしは恥かしくてしょうがない。いつもおばさんたちの後にかくれるようにして入った。それでも農家の人にすぐ気付かれてしまい、がわいそうに、こんなにちっちやな子供が買い出しにきてとよく言われた。そしてわたしのリュックサックに、いの一番にいもをぎゅうぎゅう詰めてくれることが多かった。
あれから60年もたつのね。この頃はよく、あの時親切にしてくれた人たちはどうしているのかなと思うの。でも道路も家も景色もすっかり変ってしまっている。探したくてもその家を探せないの。それでこの資料館にきたというわけ。そうしたらあの頃お世語になったオキナワいもがあった。きてよかったわ」