明治の後期から太平洋戦争前までの、我が国の青果用のサツマイモの代表は「源氏」と「紅赤」だった。前者は西日本に多く、後者は関東中心だったので、「西の源氏、東の紅赤」とうたわれていた。
源氏は広島市矢野の久保田勇次郎が、明治28年にオーストラリアから輸入した新品種だった。一方、紅赤は在来種の「八ツ房」が突然変異したもので、明治31年(1898) 秋、浦和市北浦和の兼業農家の主婦、山田いちが発見した。

いちは家付きの娘だった。婿に来てくれた啓次郎は畳屋だったので、畑仕事はいちがやっていた。彼女はもともとそれが好きで、なんでもいいものをたくさん取っていた。
浦和は大消費地、東京に近いので売るための野菜作りの盛んな所だった。そういう所の農家はよりいい品種の導入に熱心だ。サツマイモでも同じで明治20年代の後半から「八ツ房」がいいとなり、だれもがいっせいにそれを作りはじめた。いちも同じだった。紅赤はいちのそのあたらしいいもから生まれた。
埼玉県農事試験場の記録によると、八ツ房の皮の色は「淡紅」とある。ところがいちが自分の畑のそれを掘っていた時に発見した変わったいもの皮は、びっくりするほど濃い紅色をしていた。「濃紅」だ。しかもそんないもが同じ畑から7株も見つかった。
それについて昨秋、農林水産省九州農業試験場で長年サツマイモの研究をされた湯之上忠氏からこんな面白い話を伺うことができた。

「発見の状況からみて、紅赤はすでにその前年に誕生していたようですね。突然変異したいもが1本だったのか、2本だったのかは分かりません。その時はそれに気付かずに種いもにしたのでしょう。それからできた苗が何本もあったとします。それを植えれば変わった同じようないもが何株も現れます。そうなれば突然変異に気付きやすくなります。」
なるほど専門家の見方は違うものだと感心した。いちがすばらしかった点はもう一つある。珍しいいもを発見してからの扱いだ。
大きいいもは来年の種いもにするために手を付けず、細いいもだけを試食してみたことだ。それを蒸してみると実は真っ黄色、ホクホクであまく、八ツ房よりずっとうまかった。
よろこんだいちはそのいもを増やし、3年目に初めて近くの問屋へ持って行った。主人は皮の紅色があまりにも濃く鮮やかなのに驚いた。「紅でもなすったのか」 と気味悪がったという。それでも食べてみて味のいいのにまた驚き、1俵5円という腰の抜けるような大金で買ってくれた。値がいいとされていた八ツ房が1俵28銭の時代だったから、その噂は近隣にパッと伝わり、苗を分けてくれという人がどっと来た。

いちはまだ35歳。家事と育児の間の畑仕事だけで手いっぱいで、その要望に応えられるゆとりがなかった。その時、頼もしい助っ人が現れた。甥の吉岡三喜蔵だった。
その家はすぐそばにあったし、そこは農業専門だった。
三喜蔵はいちのいもに惚れ込み、それを広めることが自分の使命だと直感した。いちから種いもを買い、「紅赤」と命名した。その苗と種いもの大増産を開始し、配布を一手に引き受けた。
紅赤はどこの青果市場でも高値で飛ぶように売れたので、三喜蔵のところに全国から苗と種いもの注文が殺到した。それだけにいくらでも高く売れたはずだが、薄利多売をモットーに身を粉にして働いた。「紅赤の発見者は山田いち、普及者は吉岡三喜蔵」といわれるのはそのためだ。
江戸時代から有名だった「川越いも」にはアカヅル(赤蔓)、アオヅル(青蔓)の二品種があった。紅赤はそのどちらよりも更に素晴らしかったので川越地方でもそれが増え、大正末期には紅赤一色となった。

今年、平成10年(1998)は紅赤発見から100年になるのでお祝いをしようとなった。本来なら浦和の関係者が音頭を取るのであろうが、なんの動きもないので「川越いも友の会」が中心になってやらせてもらうことになった。
川越いもは紅赤のおかげでますます有名になったのだし、それで一番潤ったのも川越地方の関係者だったのだから、それもそうおかしな話ではないように思われた。

同会は昨秋すでに記念誌『サツマイモの女王 紅赤の100年』を出している。そこで本番の今年は山田いち、吉岡三喜蔵の功績案内版を紅赤の発祥の地、北浦和に設置、その名誉を長く後世に伝えるようにしようとなった。
場所は旧中山道沿いにある廓信寺の門の左脇。同寺は両家の菩提寺ということもあって住職も快く承知して下さった。案内版の紅赤のイラストは友の会の山田英次事務局長が描き、文案はわたしが作らせてもらった。

今日は、そのお披露目の日で集いは午後2時から始まった。参加者は30数名と多かった。十年前に『紅赤ものがたり』(けやき書房)を出した青木雅子さんや千葉県、群馬県の農業改良普及員も来てくれた。案内板の前でのセレモニーのあと、全員で山田、吉岡両家のお墓にお参りした。それから会場を近くの料理屋に移し、懇親会を行った。
山田、吉岡両家の関係者達は、このようなにぎやかな催しをして頂けて嬉しい。地下のご先祖さまもさぞ喜んでいるだろうと口々に言ってくれた。そして紅赤についての思い出話をいろいろしてくれた。

ところで、最近の紅赤は影が薄い。十数年前までの関東にはたくさんの紅赤があったが、今では限られた場所にごく僅かしかない。昭和59年に育成された「ベニアズマ」に圧倒されてしまったからだ。
紅赤は風味では捨てがたいものを持っている。特に天ぷら用ではこれに勝るものはない。ただ作りにくく、量も取れない。逆にベニアズマは作りやすく、量が取れる。
あま味もベニアズマがより強い。これでは紅赤の衰退もやむを得ないが、今日のここは「紅赤ファン」の集まりだ。頼もしい話がポンポン出た。
農林水産省畑作振興課の矢野哲男前いも類班長によると、市場に1種類のいもしかないというのは消費者にとっていいことではない。新旧いろいろの特色あるいもがあった方がいいと言ってくれた。
川越いもの本場、三芳町上富で紅赤を作って50年という高橋道夫さんは「おれは生きている限り紅赤を作るよ」と約束してくれた。
朝霞市の橋本日出松さんは今年から仲間と紅赤作りを始めたというし、川越のある いも菓子屋は、来年から店で使う紅赤を自分で作ることにしたという。
また、埼玉新聞の中西博之記者は、紅赤のように歴史のあるものを通していろんな人が集まり、それへの思い入れを語り合うことで心を通わせ合うことぐらい、嬉しくすばらしいことはないと、この企画をほめてくれた。
こうして会は盛り上がる一方だった。