群馬県勢多郡北橘村から、奈良盛兵というお年寄が1人で来られ、こんな話をしてくださった。

「わたしは渋川の近くの村の者です。百姓で今でもいろんなものを作っています。紫いもも作っています。 2年ほど前、新聞で川越にサツマイモの資料館があることを知りました。戦争中に南の島でサツマイモを作った話を、いつかそこの人に聞いてもらいたいと思っていました。
わたしは大正5年生まれ。もう85歳です。さいきん仲が良かった戦友が次々に亡くなりました。それでこれはいかん、早く川越に行かなければとなりました。今朝6時に村を出ました。それから電車でここに来ました。
わたしは昭和18年に兵隊に取られました。翌19年に赤道直下のハルマヘラ島に上陸しました。オランダ領だった島です。当時の日本軍はすでに敗け軍になっていました。島の上空には常に米軍機がいて、日本兵を見るとすぐ爆弾を投下しました。だからわれわれは空から見えないジャングルの奥深くに陣地を作りました。
わたしたちの部隊は「建築隊」でした。建築閣係のすべての職人を集めた特別編成中隊で、350人ほどいました。その中にどういうわけか百姓が1人だけいました。それがわたしだったのです。  島に無事上陸できたものの、戦況から今後の補給は無いのが分かっていました。それで島にある食べられそうなものを探しました。
幹からでん粉が取れるサゴヤシがありました。でもこれからそれを取るには手間暇がかかり過ぎます。サトイモと同類のタロイモもありました。これは大きくなるまでに時間がかかり過ぎます。部隊は短期間にたくさん取れるものを探していました。それに応えられるものはサツマイモしかないとなりました。これなら苗を植えて4か月で収穫できます。
それで急いでサツマイモを作ることになり、百姓出身のわたしがその係に任命されました。幸い現地人がサツマイモを作っていました。日本のものと較べると味のないいもでしたがぜいたくなことは言っておられません。現地人からそれを種いも用としてもらいました。海岸線とジャングルとの間に、わずかな砂浜がありました。まずそこでいもを作りました。島に持ち込んだ米が底をついた時、そのいもが取れました。といっても兵隊の数が多かったので1人当たりのいもはわずかなものでした。握りこぶし大のいもの半分が1日分でした。

これではしようがないのでジャングルの中にいも畑を作ることになりました。それには2つの条件を満たす必要がありました。ジャングルの上空から日本軍の動きを常に見張っている米軍機に分からないものであることと、太陽の光が十分当ることです。兵隊たちはそんなことができるのだろうかと思っていました。
ところが将校の中に頭のいい人がいて、ジャングルの中の大木を一列に伐り倒せと言いました。建築隊ですからそういうことはお手のものです。すると昼なお暗いジャングルの底に太陽の光が射し込んでくるではありませんか。赤道直下なので太陽が長時間頭上にあります。それを利用したんですね。 ジャングルの中は湿地です。それでいも畑のウネをできるだけ高くするようにしました。こうして飢えをしのぎ切ったのです」

奈良さんの話は今まで間いたことがないものだった。奈良さんがサツマイモ関係者に伝えたいと思われたわけがよく分かった。