東京都台東区鳥越1丁目商店会の大正生まれの店主さんの一行、20数名が来てくれた。その中の一人、斎藤静敏さん(大正9年生まれ)がこんな話をしてくれた。
「ここには中国関係の資料が多いですね。向うの昔からの焼き芋のかまどの図面まであるじゃあないですか。最近はドラム缶改造の簡易かまどが多くなったけど、こうした土製のものもまだまだありますよ。
燃料? 豆炭です。中国ではいたる所から石炭が出ます。無煙炭も豊富です.それを粉にしてドロと混ぜ、水でこねて固めるのです。煙は出ない。火力もあるし、火もちもいい、焼き芋にはもってこいです。
えっ、なんで中国のサツマイモのことに詳しいのかって? 兵隊で4年ほど向こうにいたからです。昭和16年に出征、すぐ中国に渡りました。そして河南省の開封市近郊の中無県大毛砦に駐屯、昭和19年までそこにいました。開封は黄河右岸の大都市ですが、郊外は肥沃な田園地帯でした。なんでもよくできる所でしたがサツマイモだけはだめ。それもそのはず、妙な作り方をしていたからです。
日本なら庭の日当りのいい所にわら囲いの苗床を作り、中に落葉やわらを入れ、水を打って足でギュウギュウ踏み込みますね。そうすればやがて熱が出てくる。その発酵熱を使って種芋の発芽を早め、苗の成育も早めますね。

ところが中国式は冷床。種イモをいきなり畑に入れ、地温が自然に上ってくるのを待つだけなんです。仕事は楽でいいけど、芽はなかなか出てこないし、苗の育ちも悪い。だから苗を畑に挿す時期が遅くなり過ぎちゃうんですね、イモはちいさいし量も取れない。
『なんて馬鹿なことをやっているんだ』と笑ったものです。でもなんとなくかわいそうになって、『日本のやり方を教えてやるか』となりました。われわれの部隊は第35師団第219R隊第1機関銃中隊でした。東京で編成された部隊でしたが、東京には三多摩がありますからね。農家出の者や農学校出の者がいくらでもいたんです。
ところが中国人に日本式をいくら説いてもやろうとしない。そこでしょうがない、翌春やって見せましたよ。われわれの部隊には馬がたくさんいたので、馬糞も馬房で使った敷わらもいくらでもありました。それを利用してイモ苗を作ったら、いい苗がたくさん取れました。そう、中国式より1月も早かった。それを畑に挿し、秋になって掘ってみたらこっちがびっくりするほど大きなイモがたくさんついていました。
それを見て中国人の態度ががらっと変りました。毎日朝早く、続々と馬房掃除に来るようになりました。来春、日本式をやるために必要な材料を競争で集め始めたんです。兵隊にとって馬房掃除はつらい仕事です。それをこっちがまだ眠っているうちにきれいにやってくれる。向うも新式の材料をただでもらえるので、おたがいに良かったんですね、戦争を忘れちゃうぐらい仲良くなりました。
野菜や夕マゴなどはしょっちゅう持ってきてくれたし、お祭の日なんかには特別料理まで作ってきてくれました。だから治安も良く、駐屯地から10里四方は武器を持たず、丸腰で馬でどこへ行っても撃たれるようなことはありませんでした。
ただこっちはやっぱり軍隊です。昭和19年に突然、そこを去りました。戦争が終ってずい分たってからのことです、兵隊仲間と大毛砦へ行ったことがありました。あの苗床はどうなったのかなと思って村へ入ったら、嬉しいじゃあないですか、われわれが教えた日本式がすっかり定着していたんです」

 昭和12年(1937)の日中戦争勃発以来、日本軍は中国の主要部を占領、その保持に当った。斎藤さんたちのイモ作り指導はそうした駐屯地の兵隊たちの善意から自然に始まったものだが、軍の上層部はそれを宣撫エ作上、良しとしたようだ。そうでなければたくさんの現地人を年中、しかも未明から軍の重要な施設の一つである馬房に入れるようなことを許すはずがない。
ただ中国の農民と日本の農民兵との間には宣撫を超えた信頼関係があった。だからこそ戦争が終って世の中が落ち着いてくると、斎藤さんたちはかっての駐屯地へ様子を見に行ったのだ。戦争関係の話は暗いものが多い。そうした中で珍らしく、いい話を聞かせてもらうことができ、とても嬉しかった。